翼之章「陵光は監兵と会い、重慶の市に誠を站む」 一話
陵光の目が向いた先で、影が一つ、上に跳んだ。
影は手から鈎爪を顕すと、目の前に奔走していた長尾の獣怪へ乗り、そのまま地に組み伏せた。
「おとなしくするの! これ以上はだめだよ!」
瑠璃色の髪を髻としている。肌は澄んだ皙白で、八尺弱の背丈であった。
それだけ見れば陵光がよく知る監兵であったが、身形が違う。在地の者と同じような、薄い襌。それも今まで見た者より、肌を露わにしている。
──いや、しかしな
陵光は、本当は違うのではないか、という疑いを持った。だが身の熟しが余りに監兵であったから、それだったら声を掛けない訳にもいくまいと、背後から呼んでみた。
「監兵か」
今までは文字にして、やっと言葉を通じさせたのだ。先に聞いた言葉は、正しく陵光が使っている言葉である。聞き間違いだったとしても、反応が大きいのなら、儔で間違いないかもしれない。ここまで独行が目立った陵光にとって、望むべき所である。
「いっ」
女は焦ったように立ち上がると、顔も見せずに立ち去っていく。
かなり疾い。陵光はこれまでで、この地の者がこんなに疾く走れないとは知っていた。いよいよ、確信が強くなった。
「待て、何処に行く」
陵光には逃げられた所以も解らないから、追いかけるしかなかった。足は女のほうが疾いから、追い付くだけでやっとだった。
そのまま、女は煙の上がる家屋へ駆け込んでいく。途端、騒がしい話声が聞こえて来もした。
「怎么了?!」
監兵らしき女の声では無い。すぐに女が駆け込んだ家屋から、刃物を持った老女が出てきた。
「是哪个! 啊?!」
叫んでいる。陵光は何が起こっているのか、いまいち判らず老女に近付いて行った。
「貴方の家ですか。ここに駆け込んだ者が──」
「是你!」
老女は庖刀だろう刃物を振りかぶっている。流石に危ないと思った陵光は、前に出した手へ火を顕した。
「そのまま、問答だけをしませんか」
目でも声でも、陵光は制した。
老女も只者では無いと分かったのか、庖刀を下げている。
陵光は老女の動きに合わせて、火の在る手をおろしていった。
──行きましょう
手で老女の家を示した。少し冷静になって、老女は脂汗を掻き始めている。陵光の示した通りに、帰ろうとしていた。
互いに静かになった。きっと老女も、咄嗟に飛び出してきただけで敵意は無いのだ。少し掛け違えただけなのである。
安堵が生まれると先の女が、駆け込んだ家から走ってきた。
「婆ちゃん! 危ないから!」
そう言いながら駆けてくる。今度ははっきりと、顔が見えた。
縦に大きく、髪と同じような色の眸。口の結び方や丸っぽい輪郭も、やはり監兵である。
陵光は猶更、逃げられたことが不可解であった。
「兄々、ひさしぶり」
口調もかなり余所々々しい。
陵光は監兵に、目を遣った。
「逃げた理由は聞かせてもらう。良いな」
「うん」
そのまま、三者は老女の家へと入った。
ここは飯店であるらしい。監兵から説かれるには、この辺りの者は雨露や精気を呑んでいれば良い、という訳にはいかないそうである。
神や仙人ではなく、人と呼ぶのが真っ当だ、ということだ。
「そうか。で、逃げたのは何故だ」
「それは、なんにも」
「何にも無いのに、逃げる理由が有るのか。監兵らしくも無い」
監兵は少し肩をびくつかせた。陵光は何時もの如く暴れるのではないかと思ったが、そうはならなかった。
もう夜である。空を瞰てみると、一つか二つの客星が出ていた。
「何時からだ」
「な、なにが」
「目が醒めたのが、だ。どうにも長そうだと、私は思った」
「たぶん、一年」
「一年だと」
陵光の眉間の皺が深くなる。火焔が熾ちそうになったが、何とか堪えた。
息を深く吐いてから、陵光は続けた。
「それだけの間、手掛かりは探さなかったのか。天がどうなっているか、知っているだろう」
「うん」
「他に墜ちた神も居る」
「うん」
「現に私は探し続けていたんだぞ。神としての役を棄てたのか」
「長がいるもん」
「長だけで敵う相手だと思うか。私たちが敢え無く、こうなったのだ」
監兵が長といえば、それは監兵の父の白虎の事である。父ではなく長と呼ぶのは、武門としての歴とした仕来りだと、陵光は識っている。
同時に、陵光がこれまで、監兵に施した訓示が現れなかった事に落胆もした。
「阿鈴、阿鈴呢? 婆婆进来咯」
先の老女の声である。監兵が返事をすると、蝶番で開く戸を開いて入ってきた。
陵光は老女に、端座を向けた。
──この度は
という感謝を、まずは示さねばならない。
頭を下げられた老女は、目の皺を柔らかくしている。手に持ってきた盆には、青菜の炒め物が載せられていた。
「私は食べなくても良いのです」
陵光は断ろうとしたが、老女は、そんなことを言うなと掌を振って、目の前に置いた。
「都可以」
陵光には初めて、この地の者が言っている事が分かった気がする。老女はだいぶ人柄が良いのだと、感じ得る部分であった。
老女はそのまま、監兵に外へ行くように言ったらしい。
監兵が出ていき、老女と陵光だけになった時、紙と記具を出された。南川の男と同じようなことを、老女は考えたのか。
何故、と訊こうと思ったが、きっと監兵がこの地に来た時に、同じ様なやり取りがあったのだ。だから意思疎通のやり方を、あるていど心得ていたのかもしれない。
「你名字?」
老女の筆である。
「陵光」
「陵光和阿鈴是什么关系?」
多分、陵光と阿鈴との繋がりを訊いているのだろう。だが解らない部分がある。
「阿鈴者何也」
「阿鈴、就是那姑娘」
「監兵乎」
老女を睹れば、嘆息しながら首を縦に振っていた。
なぜ監兵を阿鈴などと呼んでいるのか。偽名でも使おうと、監兵が思い付いた事なのだろうか。どこか胡乱な部分が気になったが、陵光はそもそも、己がそういう存在なのだと割って、筆を執り続けた。
筆談を続けた。
監兵は街中の家を一軒、大破させながら現れたらしい。そういった内容は端々から読み取っていったが、この老女も当時、相応に苦労したという。
辺りの警官(陵光が思うに、おそらく邏卒の類である)が集ってきたが、混乱している監兵に敵わなかった。これでは困ったという時に、老女の家に逃げ込んだ監兵が落ち着いたから
──なら、馴らして貰おうか
などという話になったという。
どうにも、先に長尾の獣怪を追いかけたのも、その一環だったようである。
「汝不患監兵乎」
陵光が書いてみると、老女は強く否定した。記具を手にする前に口で
「她可是个好女孩」
と発したのは、明確に反論であった。
陵光は謝るというよりも、納得したという所感を示した。ただ、その通りだ、というよりかは監兵を看てきた者として
──もう少し素直になってくれれば
という感情の乗った納得であった。
一刻は筆談をしていた。陵光は良くても、老女が背腰を抑えて声を呻かすようになっている。今日は潮時だろう。
陵光は老女を支えて、共に立ち上がった。そのまま孫が祖父母にするように、家の中を連れ添っていった。
老女の寝室の前にまで来て、漏れた息が聞こえた。
「你、该为她这么做」
老女が呟いていたが、陵光にはまだ、ここまで長い言葉の意味は分からない。
明朝。
陵光は老女の家の近く、木蔭で休息を終えた。
昨日の監兵の反応を見ると、あまり近付けない。だが老女は、陵光を拒絶していない。
天を救う、という命題が在る陵光にとっては、監兵を連れ戻すことも、また命題である。他の神も、この地に居るのなら探さねばならない。
残された刻限が、どれだけあるか。
──また、老女の元に出向こう
身に張り付いた草を払って、老女の家に向かった。
辿り着いてみれば、もう炊煙が上がっている。中では監兵が、薄着のまま来客の接待をしているらしかった。




