翼之章「陵光は監兵と会い、重慶の市に誠を站む」 二話
陵光は飛び出しそうになった。
──監兵は何を考えている
薄衣を纏って客人を接待するのは、天に於いては妓のする事なのだ。それも儀式に際してするのであって、このように市井で何の気無しに、しかも武神が務めるようなことでは無い。はっきり言えば、格が堕ちる行為である。
ただ、監兵を庇い容れている老女が、女を売るような者にも見えない。
監兵を保護しなければならないという考えと、己の見方は誤りでは無いかという疑いとで、陵光は躊躇した。
とにかく、間違えてはいけない。陵光は理屈を振りかざすよりも、まず昨日の繋がりで言葉を交わすべきだと判じた。
厨の間口である。
「老女殿」
陵光が声を上げると、奥で目を向けてくる者がいた。老女ではなく、鍋を振っている老いた男の厨子である。
「老婆、是客人!」
その声に応えて、奥から老女が出てきた。そして陵光の姿を見付けるなり、表情を晴れやかにしている。
四脚の椅子が、陵光へ差し出された。
座れということだ。陵光も、そうせぬ訳にはいかない。
「要不要什么呀?」
陵光の前で、老女はにこやかに話しかけてくる。
何かを求められているのだろうと思って、陵光は掌を翳して柔らかく拒んだ。
「这样啊」
老女は奥へ行って、また戻ってきた。手には昨日と同じように、紙と記具が持たれている。
瞥見すれば、監兵は客人とやり取りをしているらしい。
監兵は、この地の言葉が話せるのか、と陵光は書いた。
ほんの簡単なことなら、と老女は返した。
監兵は何をしているのか、と陵光が書けば、老女は店の手伝いをして貰っているのだと返した。
陵光は少しばかり安堵した。
老女の筆致に迷いは察えない。監兵は女妓になったのでは無いと、心に唱えることができたのだ。
しかし、このままでは監兵を天に帰らせることができない。天の中でも最も捍い、武神の一柱なのだ。
今も戦い続けているだろう白虎も、どう思うのか。陵光には監兵の目付け役としても、せねばならないことがある。
「你有心事吗?」
老女は紙に記した。何かを訊く時には、この語尾が多い。
──抱えている事でもあるのか
という意図が、文字から推し量れる。
陵光は肯いた。短く
「監兵」
と書き入れると老女も、そうだろう、と納得を見せていた。
老女が次に書いた文には、家という文字があった。帰るべき所に帰って欲しいというのは、老女も同じらしい。だが表情を察るに、そう簡単に言えそうに無いとも、承知しているようである。
同じ累の陵光は頼られている。その陵光が拒まれたのは、老女も望んでいないのだろうか。
「何故でしょうか」
陵光は溜息交じりに言ちた。
老女も長い時間、会話に付き合っていたせいか、陵光の顔貌に敏くなっているようだった。
「你好好想想呀」
柔らかく言った老女は、厨子の呼び掛けで務めへ戻っていった。
陵光は会話を終えた後、少し重庆の市街を巡ることにした。考えを纏める為というより、辺りの地勢を視ておきたかったのだ。
──監兵の事は時が掛かるな
そう考えた陵光が、土地慣れしていないことで起こり得る支障を取り除きたかった、という思惑もある。
大きな川が流れている。見えている物よりも、この地は分断されているように感じた。川も真っ直ぐ流れているというよりは、うねっている。周りに山が多いのも、ここまでの道程で解っていた。
こういう地に怪が現れたら、混乱は大きいのだろう。周りに精気が起ちやすく、住む者も多い。今の所は監兵が抑えているのだろうが、それだけでは済まなくもなり得よう。
重庆と一口に言っても、なかなかに広かった。全てを観察しながら回るには、それだけで何日も掛かる。
陵光は夜になって、老女の営む店から離れた処で宿した。あまり目立たぬよう、木の茂みを択んで、陰に隠れている。
周りが暗く、星が瞰やすい。昨日の客星が、今日も同じように輝いている。一様に光るのではなく、明滅しているのが不穏に思えた。
明るくなるのを待ってから、陵光は再び動き始めた。取り敢えず監兵のことは忘れて、地を視ることに集中する。そう決めた。
陵光の宿した近くには、向こう岸へと橋が渡されている。陵光はその橋を渡って、南へと五十里ほどを進んだ。するとまた、同じほどの橋が架かっている。
どうにも別の川ではなくて、同じ川が大きく弯行して突き当たっているらしい。眺めてみると、流れの先に違う川が、それもより大きな川が注いでいるようであった。周りで立て板を読んでみると、この川は长江と呼ぶらしい。
陵光は気になった。川幅が大きいことは判る。だが幅に比べて、水が少ない気もする。これほどの大きさならば天河のように、もっと揺蕩っていそうな物であった。
そういえば、雨は有るのか。雨が有るのなら、川へは注がれないのか。
陵光は思惟してみたが、不自然だと思えば、その事象に怪との関わりも疑ってしまう。
心中の昂奮が、これまでで残りすぎているのか。
陵光は見た物を確りと頭に留めて、他の所も見回ることにした。ちょうど川沿いに行けば、迷うことも少ない。
流れを辿り、方々を見物し、だいたいの重庆の様相を理解するのに十日は掛かった。あまり進みすぎないように、今は非常であるという気分で、あまり動き過ぎないようにしたのもある。
重庆とは中々、陽の気配が強い場所だと解った。さらには水の気も多くて、陵光には快不快が入り混じってもいる。陽の生む暑気が水を侮って、そうしているらしい。
陵光は、そろそろ土地の視察もよかろうと、監兵の居る厨の近くへ戻った。着いたのは夕頃で、前よりも人が多く見えた。
四輪車も多い。これを在地の者に言わせれば、车と言うらしい。そういう覚えた事柄を反復しながら、遠くから暫く、監兵の動きを見ていた。
つくづく前とは違った。
──いかんな
陵光は思考を押し止めた。ここで、この通りのままにしておけば、天は崩れる。いくら老女が優しく監兵が懐いていようとも、厳格にせねばならない。
とはいっても、手薬煉もできないのが今なのだ。
何日か、変わりが起きるまで待とうかと思った。無用に動くよりは良い気がする。周りの事は少しずつ分かっているのだから、あとは機を待つしかない。
陵光は日を跨いで、朝から晩まで監兵の動きを見続けた。監兵は要領が良いのだと、ずっと思っていたことが表れている。老女に客の求めた物と数を伝え、他と話す時の愛想も良かった。
笑う顔が、天での目を開いたままのものでは無いとも、遠くから分かった。あそこまで目が細まるのだとは、陵光も初めて知った。
──いや、だいぶ前に出たことはあったか
陵光は見張り続けた。何度か監兵が外に出て、現れた怪を討伐ちに向かっていた。監兵の力なら、ある程度は苦にもしないだろう。実際、あまり時を掛けずに戻っていた。
陵光は監兵らの過ごし方を瞰て、少し離れるべきかもしれないと考えた。いま行っても監兵に意固地となられるだけだろうし、なにより身を安んじきっている。こうなると、なかなか動かせない。
しかし、重庆には留まろうとも思っていた。陵光には監兵が来るか来ないか以外にも、この地に心配事ができていた。
──やはり、长江が気になる
見回りの十日の内に、水が少なくなっていたように察えた。監兵が言うように、人とは飲食しなければならない存在であるなら、あの水の手の渇きは、実は重篤ではないか。
陵光は監兵を諦めたのでは無いし、諦めてはいけない。
それでも先に、そちらを片付けてみようと考えて、目の向きを切り替えた。




