陵光は勘に頼って、重庆の中の长江沿いを探っていた。楼の立ち並ぶ街を外れ、长寿、涪陵という地を過ぎていくと、そこから東側が山がちになっていく。
川を視ていると、やはり水が少なかった。山に入った折には、少しばかり陽の気が強くなったとも感じる。
──旱というやつか
陵光は考えた。夏という大陽の節が在る。その節に陽の気が強まりすぎると、陰物の水は陽に克たれてしまう。それが起こってるのなら、実は大事である。
陵光が記憶を検めるに、旱というのは曰く、女魃が係る事がある。女魃は黄帝の娘で、青衣の神女である。だが天に昇れず堕ちたままなのだ。もしも女魃が相手であれば、監兵に対してよりも手を煩わせよう。
山に入れば独りであって、何にも頼らずに動かねばならない。想えば今まで、試されてばかりいる。天に帰れず、今の土地で右往左往するだけの存在になり得るのだ。
目を上げ、山を眺めれば、植わった木の葉が照り返している。
陵光は暫く、この中で暮らすのであって、見据えた事の為にも疎んではならない。己の天を救うという大義を、ひとまずは忘れることにした。
山中百里。それだけの距離を往った。稜線に出た後は次の峰の頂を目指して、それを辿っていく。木々が密集しているのを見ると、孟章が喜びそうだとも思った。川も在るなら、執明も好む地だろうか。
山林を進めば進むほど、人という気配は無くなっていく。有ったとしても田圃が殆どで、種々の屋宇は疎らになっていた。
陵光は道中、休もうと思えば草木を手折って燃やし、己の精気へと変えた。周りはまだ陽気が強いから、火精はすんなりと取り込まれていく。これができるのなら、完璧とまでは行かないまでも力を蓄えられそうだった。
──何が起こるかも分からない
枝を火に変えながら思った。つくづく、性と違うことをしているのだ。本当は監兵のような者が前にいて、陵光は後ろに控えて大局を瞰ていくのが役割のはずだ。そうでなければ案に張り付くのが常である。
不自由極まりない。それでも自戒自律をするのだ。
陵光は初めて甲を解いた。気のせいか、少しきつく感じていた。
上裸となり、鬘と腕釧を外し、腰布を敷物にした。今は袴褶と足甲だけである。これ以外に纏う物も無いから、少し楽になった。
横臥はしない。せいぜい胡坐を掻くぐらいが、陵光にとって最も安らいだ。
臍下に気を溜めるように、静かに息をしてみた。
山の風が吹く。こういう抜ける風には陰気も在るが、それは蝕む物というより調和を齎す物だった。そして調和が少し破綻したと思えば、何かが起こった時である。
陵光は瞑目していたが、風が揺らいだと察した。陽気が陰気に勝っている。これは大抵、乱というより災であろう。旱の根本が動いたのだろうか。
立ち上がり、手早く解いた甲の類を纏いなおして、気配の方向へと向かった。
騒めきが増し、多々の禽獣の声が谺している。木の幹が折れる音も、方々に在る。
災の元が巨大らしい。勘付いた陵光は手に剣を顕して、山中を進んだ。視界も悪いから、稚拙な手出しだけは避けるとも己に銘じていた。
開けた所を見れば、混乱した羽怪が飛び回っている。怪が恐れる怪なのだろう。
五里ほどを進む中で、陵光は羽怪を往なしながら進んだ。進む程に数は多くなり、陽の気配が増すごとに種も変わっているようであった。最初は手で払い除ける程度であったが、今は剣で一羽ずつ断ち斬っている。それだけ怪も強いものが巣食っていよう、という景色である。
少しずつ、足が止まった。陵光は数羽の羽怪を相手取っている。火の気配をした赤黒の小さな羽怪と、色の鮮やかな赤と青の羽怪とである。特に黒の羽怪は、よく睹れば二つの首と四つの脚を持っていた。
羽怪は乱れて、陵光をも敵としているらしい。
一羽の赤黒の羽怪が、翼を広げたまま喙を刺しに来た。陵光は剣を横に斬った。同じ火の気を持つと雖も、陵光にとっては端下である。それにも拘らず双方の羽怪は、塊で陵光を害そうとしてきた。
正面から飛んでくる羽怪を、二十餘は斬り続けている。数が少なくなったと察るや、陵光は剣を振り続けながら、受け手を攻め手へと変じた。
陵光は多少なら、飛行ができ始めていた。火を、休むごとに体へ入れた事が効いてきている。
高く、木の背が届かない位置にまで跳んだ。大きな騒めきを見付けてから、狙いを定めて力を溜め、空を踏み台にして飛んだ。
一瞬の内に、半里ばかりを陵光の影が通る。着地すると、周りに火円ができた。
深く息を吸う。陵光の肺腑に火が入る。陵光の毛髪が少し光ったが、まだ天に居た頃には程遠い。
前方。巨大な尾が引き摺られている。その尾が異様な陽気を帯びていた。
──これか
陵光は尾の逃げた方向から来た獣怪を一頭、両断した。これも、異様な風体であった。
陵光は剣を携えたまま、山の深奥へ足を踏み入れた。
尾の跡が、轍のようになっている。一両の車が通りそうな程で、脇には細い木や草が圧し折られていた。太い幹があれば、間を抜けてうねりがある。
轍をよく視た。中に足跡は無かった。蛟の類ではないかと、陵光は推測した。
土地や山林に依拠する怪であれば、陵光だけでもなんとかなる。もしも长江に属した水怪の類であるなら危ない。
刹那悩んだ。周りを見渡した。陵光だけである。
水の手が無ければ人は生きられないと云うのなら、往かなければ仕方が無い。
轍を辿った。
斜面が急峻になった。そういう所にまで、陵光は至った。轍は急いだものではなく、何本もが重なるようになっていた。
何度も通るからこうなる。ならば追っている怪は、近くに馴染みが有るに違いない。
陵光は斜面を見た。影が、線を描いていると捉えた。
走り、山の斜面を登って行く。木に隠れていた怪の体が、少しずつ露わになる。蛇虺の属と云うには異様だった。
蛇の胴、細い脚が三対、伸びきっていない翼が二対。鱗は判らず、脚を使うよりも蛇の如く這った方が楽に動いていた。玄いが、少し白い。
陵光は立ち上る精気が陽炎の様になっているのを、旱の根拠とした。この蛇怪が何なのかも解らないまま、剣一振だけで斬りに掛かった。
蛇怪も、陵光の強い気配は身に覚えているらしい。
陵光に向かって口を開いた。
陵光は空を踏んで身を躱した。もういちど踏んで、隙のできた蛇怪の顔へ一撃を入れた。
鼻梁を斬ったらしい。剣を突き立ててもう一撃と思ったが、その前に蛇怪が頭を振って、陵光を撃ち落とした。
足場が整わない。陵光は背中から、木の茂みに落ちた。
少し木蔭になっている。蛇怪の姿が見え難くなった。音と気配を頼りにして、待った。
──跳ぶか
陵光は脚に力を入れた。跳んで木の上、俯瞰できる位置。陵光は左から気配を感じた。
斬る、鼻頭か、いや、尾だった。後ろから息と、骨の軋む音が鳴る。空の踏んで避けようとした。それよりも早く、蛇怪が陵光を捉えた。
嚙まれた。剣を使って片側は拒んでも、他方から食い込んでくる。ただの牙で無く、水に潤んでいるようでもあった。
次第に精気を失った。このままでは食われる。
そうはなるまいと、陵光は己への喝入れに声を上げた。剣を振って弱そうな牙を一本、摧折した。
蛇怪は悶えている。噛んでいた顎を開くと、そのまま陵光は落下した。
逃げていく蛇怪の姿を見ながら、陵光は体を起こした。
火を熾そうにも、熾せない。どうやら先に嚙まれた潤んだ牙が、陵光の身を水に蝕ませたらしい。