翼之章「陵光は監兵と会い、重慶の市に誠を站む」 四話
足が重たい。
山中には怪も居る。前には旱を呼んでいた蛇怪を避けて一目散に逃げていたが、陵光の弱りを察て、手を出してきている。
陵光は拳を振るい、なんとか退けた。火を熾せなくなったのと同様に、何日かで剣も顕せなくなった。
だいぶ水の気が体に入った。そのせいで火の気が相殺をされている。
市街に入る頃には、周りの人々がよりも遅い歩調で、重庆の北を目指した。
九百里を、ひと月以上掛けている。もっと歩こうと思っても、蝕まれた体がそれを拒んでいた。
家屋の陰で腰を下ろした。まだ日が在るが、ここまでで精一杯である。火を探してみたが、辺りには見当たらない。このまま衰弱して、野に伏すばかりになりえた。
──それは避けなければ
陵光は壁に寄りかかりながら、体を起こした。疼きなどは無いが、活力そのものが無くなっている。少し歩けるかと思ったが、動きが覚束なくなっていた。
監兵が匿われている、厨の近くである。ここに頼るしかないと、自然と足が向かっていた。
陵光は厨の屋宇が見えた途端に、地に体を寝かせた。
張っていた気が霧消していた。
少し眠い。今まで疲弊しても睡魔は無かった。よほど弱くなったのだと、残念にも思う。周りは怪しんでいるのか、手を差し伸べては来ない。
少し眠るほうが良いのかと、陵光は思った。
「兄々、兄々がいるの!」
離れた所に声が聞こえる。監兵だとすぐに判った。
──焦るな
そう言いたかったが、うまく声が出せない。
朦朧とする中、陵光は厨へと運び込まれていた。誰かに抱えられていたが、監兵だっただろうか。
床に寝かされた陵光の上で、老女と監兵が声を出し合っている。
「火!」
「火? 干嘛?」
「快点!」
監兵が火を使えと呼び掛けたのか。老女の声と、奥から怒鳴る男の声とが聞こえる。それをまた、老女が怒鳴り返していた。
陵光は監兵に抱えられた。
「兄々、助けたげるからね」
抱えられたまま、竈の辺りに運び込まれていた。横には黒鉄の口の中で、火が強く焚かれている。
「吸うの、吸って!」
監兵の仰ぎに従って、陵光は息を大きく吸った。
蛇怪と戦ってから熾せなかった火である。どんどんと陵光の鼻から吸い込まれた。それでも陵光の中に残った水の気は、すぐには体を自由にしない。
一刻ほど、そうしていた。片方の竈が熱されすぎれば、別の竈に変えて、火が焚かれ続けた。そのあいだ監兵は陵光を抱え続け、疑念した厨子が割り込んでくるのを制していた。
老女は何も言わない。厨の務めをしながら、たびたび様子を見に来る程度である。
強い火であったから、この一刻で陵光の体は好くなっていった。恢復しきったとまでは行かないが、己で動いて、所作の自由もまま取り戻している。
言葉を発せるようになった陵光は、まず老女へと頭を下げた。
「不是我、对吧?」
老女の言葉はそれきりであった。諭しはするが、不快だという貌では無い。むしろ何処かで、安心したと言っているようであった。それから老女は、監兵の肩を押して連れてきた。
頤で陵光を指している。小さな声で促してもいる。そのまま、務めが残っていると離れてしまった。
双方に、言葉に詰まるものが有る。
陵光は椅子に座った。監兵はその姿を、立ったまま見ている。
「これまでを忘れたか」
陵光の言に、監兵は慌てて椅子を持ってきて座った。
「そうだ。師が座れば弟も座れ。礼儀というものだ」
「ごめん」
「良い」
少し異様でもある。見た目だけで謂えば、陵光も監兵も、さして歳に変わりはないのだ。
陵光の紅顔が、監兵に向いた。
「しかし礼儀は、弟だけが施すものでは無い。何か縁があるのなら、須らく施すものだ」
監兵は目を伏せている。口も噤んでいる。
「救かった。あのままだったら、横死していたかもしれない。殆うかったのだ」
陵光が言い切ると、監兵は少しだけ目を上げた。少し目が合うと、また逸らす仕草をした。
「恐れるか」
「うん」
「それでも、救けたのか」
「そう」
「克己とは、そういうものだ」
「違う。兄々だもん、頑張ってるから恐いんだもん」
監兵らしい言葉を聞いた気がした。純粋すぎるのは確かにそうであったと、これまでの係わりから思い出した。
「これから私は、宿を尋ねようと思う。まだ体が戻り切っていない」
「──ばあに言う?」
「私から義理を通す。監兵は係わらなくて良い」
「でも、だめだったら、またこうなるんじゃないの?」
「それは私でなんとかする。いずれ天に還るのだ、自由が利かぬのなら隠れながら過ごす。他の墜ちた神も、探し出す」
「あたしは?」
「今は考えるな。後で良い」
陵光は立ち上がった。監兵の脇を通って老女の元へ行き、再び頭を下げた。解らないながらに声を交わして、何度も頭を下げながら、筆談の中で
──店を手伝うのなら、まあいいよ
という許しを、取り付けてもらった。
それから、何か月も経った。
世間では正月と云うらしい。老女が言うのには
「这个月要忙起来了」
なのだそうだ。
陵光の体は回復している。今なら己で火も熾せるし、剣も顕せる。空で飛ぶ力も取り戻していた。
あれから何日もの間、半刻ばかりを竈の前で過ごせたおかげであった。今は火に当たる口実も含めて、厨子の服を纏い、食材を調理している。
「小面两碗!」
「肉呢?」
「豌杂一、|肥肠一《féicháng yī》!」
「好咯!」
陵光は鍋を振るった。ひき肉と煮豆を炒めて豌杂を作り、麺を茹で、湯を沸かして辛味を加える。肥肠は豚の腸であるから、別に焼き上げた。
「来咯、小面!」
仕上げた麺物が、客の元に運ばれていく。忙しくなると、これが数百と往来するのだ。
この日も陵光は鍋を振るい続けて、終わった後には丁寧に器具を磨いていた。
「兄々、おつかれさま!」
監兵が明るかった。陵光が来たばかりの時よりも、少し砕けていた。
「これ位はする」
「兄々が来てから、お客さんが喜んでいるよ」
「来る前の料理が、少し荒かっただけだ」
「兄々は美食家だもんね」
「それは何だ」
「うへへ」
監兵が、案に寄り掛かって薄ら笑いをしている。
陵光は監兵の置いた手を、目を使った仕草で除けてから拭いた。
「兄々が甘い物が好きなんてねぇ」
「そういう物だ。初めから舌が利くし、苦い物はより苦く感じる」
「お店の人たちも、兄々が来てから大きな飯店に味で負けなくなったって言ってるよ。むしろこっちの方が旨いって」
「当然だろう。こうして恩を受けたのだから、最善は尽くす」
「厨房も綺麗になってきたもんねえ」
「穢れは気になる」
もうちょっかいは出さないでくれ、と陵光は思っていた。師弟として、距離が近すぎれば問題なのだ。掃除を終えて、陵光は床に就こうとしている。
「終わりだ。今日は休む」
「ん。いいよ」
そう言いながら監兵は、陵光の後ろを蹤いてくる。どうしても背中が気になる。
「もう部屋に入るぞ」
「わかってるよ」
「男女師弟の別は果たせ。ここは監兵の閨じゃない」
「話したいことがあっても、だめなの?」
陵光は逡巡した。髪を掻いた後で、なら入れと、監兵を部屋の中に誘った。
二人で対面して座ると、かつて監兵に教鞭を執っていた頃を思い出す。もっとも今は、あの時のような厳粛な雰囲気は無い。
「兄々」
「なんだ」
「私も行こうかなって」
陵光は小さく息を吸った。監兵の瑠璃色の目は、夜だとよく光る。
「それで良いのか。後悔だけは止めろと、前には言っているぞ」
「いいの。また兄々が大変な目に合うのもいやだ」
「──甲は」
「しまってあるよ」
陵光は黙考した。立場として監兵に厳しくする謂れはあっても、後悔させる謂れは無い。あの老女のことも考えれば、猶更そうなのだ。
「礼は示す。それから考えよう」
「うん。あと」
「まだあるのか」
「兄々はなんで、ああなったの?」
「旱の本を見つけて、敢え無く敗れた」
「このへんに?」
「東だ」
「兄々で大変なら、みんなにも大変だよね」
「行くのか」
「強い奴と戦いたくなったの」
監兵は天に居た頃の覇気を、少し取り戻していた。




