孚應は大刀を振るった。
ひと薙ぎで怪の群れは散り散りになるが、水を搔き分けたようなものでしかなく、再び群がってくる。
この光景を、何度見たか。
幸い、孚應は疲れを感じるような体ではない。それにしても、中央に座している天帝の元に馳せ参じようというのに歩を進められないということは、精神を煩わせた。
紫微垣の閣道が不通となったのは、天界の動乱が起こる僅か前だった。同時に天棓の一部が崩れたりもした。
天界の諸官吏は、凶兆であると口々に話し合っていたが、議論が纏まる前に紫微垣の各所が不全となっていった。
初めに事が起こったのは、斗魁と呼ばれる場所であった。
いつもならば斗魁の辺りは、精気が満々としているはずであった。その精気が疎弱となった。
何があったのか、と斗魁中の天理の辺りにいた兵が警邏をしていると、突如として瘴気が吹き上がった。
ただ事では無い。場にいた全ての者が分かった。即座に天帝の元へと兵を派遣するべし、という羽書(急報)が飛ばされたのである。
紫微垣の中央にいた天帝も対処をするべく、己の近衛兵である勾陳の軍を派遣した。
この勾陳の軍の主将に在るのが、孚應である。
孚應は軍の総帥として、黄龍と呼びそやされている。武に於いては他の追随を許さず、かつ怜悧であり、評判も高い。
勾陳の軍の長としては、これ以上の人材はいないだろう、というお墨付きが有る。それ故に、ただの軍隊としてだけでなく、天界での祭祀や儀礼を壮麗に飾る役もあった。
実を言えば、孚應と天帝との間には然程の繋がりは無い。勾陳の軍の長に推輓されたのも、黄帝の口添えがあった為である。それまでの孚應という神格は、何者でもない、空虚なものであった。
しかし、いまの役に就いてからは多忙となった。
天界には意外と、問題がある。少しでも巡行が狂うことがあれば即座に是正をし、安定を取り戻さなければならない。寸分の狂いも許されない厳しい世界であるから、そのぶん気の遣い方は過剰なまでに鋭敏でなければならなかった。
天は不変の理の中で動いているのではなく、神々の努力が天を不変にしているのである。
そういう意味で謂えば、斗魁での異変を発端とする今の天界の状況は、孚應からしても焦りを生じるものであった。
天は不変でなければならないというのに、それこそ乾坤を転覆してしまいかねない現象が起き始めている。
天は清浄でなければならない。それなのに、氛気がどうどうと音を立てながら湧き上がっている。辺りが昏迷としている。
昏がりの中で、孚應は天帝へ駆け寄ろうと藻掻いている最中であった。
背後から風を切るような音が聞こえた。孚應は音に気を掛けつつも、目前の怪の群れを斫り拓いていった。
背後から、怪の悲鳴が幾重にも聞こえてくる。少なくとも怪に敵する存在であるとは判った。
孚應は敵か味方かも知らない存在に追いつかれまいと、大刀を振る速度と大きさを、さらに烈しくした。烈しくなるに従って、怪を搔き分ける速度も上がっていった。しぜん、濁流のようであった怪の陣容は徐々に鑿たれて、孚應の進路を示すようになっていった。
背から声が掛かった。
孚應は忙しなく怪を斬り捨てながら応えると、声の主は陵光だった。
孚應は先頃から背後で躍動していた正体を、初めて知った。
孚應は陵光へ、数は幾らか、疲れは有るのかと訊いてから、己は儘に前進するから、陵光は上から掩護をするように、と指示をした。
陵光は快く返事をし、そのまま飛んでいった。
孚應の麾下が怪の群れを往なしながら、報せを持ってきた。白虎の軍が勾陳にまで来ているという事と、執明の率いる軍が百万の軍を連れて怪へと衝突した、ということであった。東からの龍の軍は天市垣で足止めをされているとも、孚應の耳には入ってきた。
強力な援軍が続々と来着している事実に励まされながらも、孚應は天帝の御座す宮殿へ、階段を登っていた。
孚應に負けず、陵光は飛び、怪の気を惹き、また何処に闕が在るのかを逐一、孚應に告げていた。同様に云えば白虎の軍も、怒涛の如く怪を殄滅しながら進んでいる最中であった。
空から矢が、雨の如く降り注いできた。
勾陳の軍は、皆が長兵(長柄の武器)のみを使う。白虎の軍は、ここまでの射程で矢を射たない。このように雨矢を降らすのは、思い付くのは執明の軍であった。
いよいよ天の軍は苛烈になった。渦巻いていた怪の群れが、疎らになっていた。勾陳の外郭が、飆の様になっている。
まだ暫く耐えようと、孚應は覚悟をしていた。しかし近くに将の足が届くのに、そこまで時は要さなかった。
始めは監兵が来た。白虎麾下の軍勢が勾陳の外に戦っている間、監兵のみが蛮勇を発揮して、孚應の傍にまで突貫してきたのである。
孚應は心強い、と監兵の到来を喜び、また監兵も孚應の無事と奮戦を察て、欣喜を大仰にした。
その後、宮闕の怪が凡そ殲滅され盡した時、門から執明が駆け込んでくるのが瞰えた。
隣には孟章が、巨躯を揺らしながら奔っていた。どうやら二柱で、怪を搔き分けてきたようだった。
孚應が先導となった。陵光、監兵、執明、そして孟章といった五神は、天帝を救わんとして、いよいよ殿へ入った。
天帝、天帝、昊天上帝、と大声に呼びかけながら、孚應は大議堂の玉座へと駆けた。
玉座の前に天帝と、天帝を虜にしている異形が見えた。
孚應を含め五神の誰しもが、異形の名も、姿も知らない。
孚應は異形に、名乗りを促した。言葉が通じるかは判らない。だが、何か意図を持ち得るのなら、言葉に些かも反応しないとは、ならないのではないか。
異形の表情を視ようと、孚應は見詰めた。
眼輪に、眸が四つある。そのせいか、どこを見ているのかが察せない。
異形は口を閉ざしたまま、ゆっくりと五神を眺めている。
首は動いた。そこに孚應は、異形の感性を睹た。
監兵が駈ける。陵光が飛ぶ。
異形の懐に潜り込み、一撃を加えんとした。
敢え無く躱され、陵光は地に、監兵は梁に飛ばされた。
飛んでいく監兵を避け、孟章が斧を振りかぶる。
頭へ。孟章の號音が轟いたが、次には呻る声に変わった。
孟章の膂力が通じぬ。異形が腕で、動きを止めている。
隙有りと、執明が大弓を射った。飛矢が異形の水月を衝こうとしている。
異形は孟章を制したまま、矢を横に躱した。孟章が逆に、異形から水月を穿たれた。嗚咽が鳴る。
異形は手にした矛を投げ、孚應を狙ってきた。孚應は打ち落とし、異形を睨んだ。
居ない。
横に刃が瞥えた。
孚應は屈み、刃へと大刀を振るった。
異形が居た。捉えたと思っても、裾を掠めるだけである。
斬り上げる。体を捻られた。見えぬ所から刃が来る。
少し周りを見れると、異形の手には執明が提がっていた。
孚應は、一撃を扞いだ。それでも二十歩ばかりの轍を作った。
五神は散った。異形が各々を一睨みした。
床が一撃、異形に鑿たれた。
揺れる。罅が入る。
生じた大穴に為す間も無く、五神は天から墜ちていった。