軫之章「陵光土埃に起ち、人間に憔徊を始む」 一話
陵光は手を動かそうとした。
全く、動かなかった。
体そのものに異変が起こっていると思っていたが、暫くして
──何かに抑え付けられているのだ
という事に気が付いた。
暗黒である。口に土が入ったことで、漸く己が土中に埋まっているらしいと思うに至った。
一刻も早く出ようと藻掻いた。感じる氤氳に静謐さは無い。墜ちたという記憶も在るから、ならば何処に墜ちたのかは、陵光が特に気にした所であった。
少しずつ肩が動くようになっている。己の精気を放ってみた。火が熾ち、手元の土が柔らかくなった。
「んん」
呻いて、腰から上の土が退かした。少し土が剝がれ、光が差してくる。
体が鈍い。それでも、もうひとつ踏ん張りを効かせた。
一挙に体が起こった。腰から下は埋まったままだが、周りの景色を知れるようになった。
「なんだ──」
陵光は唖然とした。まずは紅色の長髪に付いた砂塵を振り払うのに、躍起になってみた。そしてまた、周りを瞰た。それでも信じる事はできなかった。
右手で体を地中から抜き出しつつ、左手で目を刮る。この時ばかりは丹色の眸の上にある、長い睫が邪魔になった。
総身が地表に現れたことで、息を少しばかり吐けた。それでも周りの異様さは変わらない。
──取り敢えず、辺りを知るべきか
そう決めた陵光は、黄金綺縠をあしらった装束を鳴らしながら、楼閣が見える方角へと歩き始めた。
近くの張られた帯を越え、楼閣を捉えながら進んでいく。走って行こうかとも思ったが、走れない。走るだけの力が陵光には無い。
もしかしたら周辺の風景が、己を蝕んでいるのではないか。その感覚は天とは違う、精を褫奪されるような気の流れから解る。
それでも少し歩けば、見えた楼閣の袂には、すぐに辿り着けた。いま渡ってきた橋も、天の橋と遜色無いほどに大きい。天で無いのに天のようである事が、猶更に不可解である。
「你好?」
横から話しかけられている。声のした方向へ顧みれば、女が立っていた。
「ここは何処か、教えてくれませんか」
相手を仰ぐべきだと考えた陵光は、丁寧な言葉遣いで尋ねた。
しかし女は疑うばかりで、一向に応えない。
「返事だけでも」
陵光は言いながら、女の視線に注意を払った。
──何れを怪しんでいるのか
そう考えながら眸の方向を辿って、首から上だろうとは理解した。
服飾も、女は襌だけを着ているような風体である。違い過ぎる程だったが、違いすぎて問題にならない気もした。
陵光は、頭に手を遣った。
「これですか」
焔を模した鬘を触りつつ訊いてみたが、女には、どうにも反応が無い。
これでは手掛かりも無い。考え込んだ陵光は、ふと思い当たる事を見付けた。
──言葉が違うだろう
女が最初に行った你好という言葉は、全く脳中に中たるものが無い。己も今まで呆然としていたから聞き流たままだったが、問題と謂えばそれで有り得る。
陵光はすぐに、やり方を変えた。
「あれは、何ですか」
そう言いながら、前方にある巨大な楼閣、或いは宮殿とも取れる建物を指差した。こうすれば言葉は解らなくても、多少の意図は伝わろうと考えた。
「啊──那是、那是超市」
「那是超市?」
「超市」
そこまで女に答えられた所で陵光はやっと、今のやり方で、なんとかなるだろうと確信した。
「ありがとうございました」
陵光は会釈をした。多少の含蓄が有る笑みを陵光は向けてしまったが、女は満足しような貌である。
まだ所在が確固として判っていない陵光にとっては、これがやけに不気味であった。
超市、と言われていた建物に、陵光は入ることにした。これだけの大きさならば、周りの事が解るかもしれないのだ。きっと何かの官衙ではなかろうか、という推測もあった。
先頃から気になるのは、背の低い金で造られたような四輪が自走していることである。己が通っていようとも構わずに走ってくるから、いつかは轢かれるのではないか。
不安を抱えるばかりであった。また定住しているらしき者を見掛けたが、それらも陵光のことを、かなり不審に見ていた。
──そこまで、可笑しな事をしているのか
陵光は超市の中へと入った。人は疎らである。
目を見張った。陵光が察ているのは服飾である。こういう場所では服が如何なる物かを総覧すれば、その者の持つ役職が、ある程度は判るはずだった。
できれば、形式ばっている物であれば判り易い。
しかし、居ない。皆が襌を羽織っているようにしか見えなかった。
──全員が仙人なのか
天の仙人の様態を思い出しつつ、そうも穿ってみたが、彼等らしい気の練り方だけが感じられない。
となれば、次は場所で絞るべきであった。らしい処に、らしい者が居る。それだけで己が瞰る時の軸は定まる。
少し壁で区切られた場所の、中に女が見えた。先にやり取りした女とは違って、すこし身形が整っているように思えた。
「もしもし」
陵光は女の背に声を掛けた。
振り向いた女は陵光を見るや、かなり訝しい目容を示している。
「那是什么、你」
手に持った物を投げようとしている。陵光は手を翳した。
女の動きが少し鈍った所で、言葉が通じないとも解っていた陵光は、取り敢えず身振りと、先に聞いた挨拶らしい言葉を使った。
「你好」
陵光も舌は器用である。音は合っているのではないか。
女も、挨拶くらいはできるという辺りで、なんとか気を収めたらしい。
「那、是什么事」
女の言葉である。それが何を言っているのか、陵光には解らない。解るのは、何かを問われているのだろうか、という事のみであった。
「ここは、何処でしょうか?」
陵光は指で、地を指してみた。
女も多少は判じたようで、陵光の脇を頤で差している。
「那」
陵光はその先に、目を向けた。
嚢や珥らしきものが懸けてある。すぐに陵光は、己の頭の辺りを差した。先にも示した物である。そこには鬘から垂れる、朱の連珠が有った。
「こういう物ですか」
女は頷いた。何か訊きたい事が有る、というばかりの様子である。そのまま鏡を持ってきて、陵光の前に翳した。
陵光の顔が映る。周りからよく、上玉の女と揶揄われる目鼻立ちだった。
──男なのだがな
そういう想いが過るのは、鏡を見る度である。
鏡から目を外すと、女が少しばかり、顔を緩めているのが分かった。こういう相手にしつこく話しかけ過ぎるのも、好くは無い。
最後に何か聞けないか、企んだ陵光は短く
「地図」
と言ってみた。陵光なりの、通じない言葉ならば短くしよう、という慮りである。
女は考えているらしい。六尺半ばかりの背丈がある陵光の顔を、見上げている。
「去那边、明白了?」
女は陵光の後ろに指を差した後、その指を左に向けて動かした。
左後ろに向かえば、何かが在るということなのか。陵光は礼を示す為に、静かに手を前に構えた。
女は大呵いした。
「老式的」
嘲笑されれば、陵光も敏く判る。そういう言葉かもしれないとは思ったが、笑貌は苦笑に変えて保った。
やり取りをしながらも、しかし遠くから、けたたましい音が聞こえてくるようになった。今まで無かった哨吶に似た金管らしき音が、断続している。
陵光の気がそちらに向けば、墜ちた後には感じなかった妖しさが、なんとも顕著に漂ってきた。
声も聞こえる。叫声ではないのか。
「ここで待っていろ」
陵光は話し相手となった女に、手と声で示して、急いで音の本へと駆け出した。
明らかに、尋常では無いらしい。
超市の閤門の辺りで、逃げてくる二、三とぶつかりかけた。陵光はそれを避けながら、外へと飛び出した。
自走の四輪車が中央、中は空だが上には禺の群れが屯している。
赤い目、白い耳。己と変わらぬ程度の大きさと、長い尾。
こちらを睨んできた禺は、牙を剥いたかと思えば、目にも止まらぬ速さで陵光に飛び掛かった。




