孟章は、己の身ひとつで天市垣に乗り込んでいた。いまは市楼と呼ばれる楼閣の上で、天市垣の城街が一体どうなっているのか、見渡しているところである。
外縁にある居住区のうち、宋と南海は既に鎮めた。しかし、高い所から俯瞰をしてみると、あちこちから黒煙が立ち上っている。
この煙の範囲の広さが、今の天界の様子を端的に表していると思えた。
孟章がここに来たにのは、理由がある。父から、おまえも出ろ、と書かれた簡牘が届いたからだ。
二十八宿の、さらに外の地。三垣から見れば「化外」と評される土地で、孟章は普段を過ごしている。
理由は単純である。孟章が過去に、罪過を起こしたのだ。化外の土地に流されたのは、孟章自身がまさに、化外と呼ぶに相応しいと、裁決されたのに他ならない。
孟章は龍の一族である。
父は龍王であるし、母は龍女である。
天界に於いて存在の大きな龍の中で、孟章は一柱だけ、このような放逐の憂き目に遭った。
周りの目は冷たい。龍という存在が名門として認知されているだけに、よくも一族の名を穢してくれたな、と散々に罵倒された。
孟章は当初、己に降りかかった罵詈の数々を、理不尽だと思っていた。
いま思えば当然ではないか、と判じざるを得ない。父が一番に怒髪冠を衝いて、孟章を責め立てたのも、父子の情が在るからだ。
それでも孟章は、天の仕来たりについて、堪忍しきれないことがあった。
それは過去に罰した者を、その後に何食わぬ顔で使役することである。
確かに天界では、決まった神が、決まった位で、決まった役目を果たしている。
天帝が、御座している。その下に、五行や季節を司る五帝が御座し、天帝と五帝以外の神は其の周りで、天の均衡を崩そうとするものを討ち払い、或いは天の運行次第を確認して、吉凶両方の物事に、未然に対処を施す。
その努力の基に天は安んじられているのだ、ということは解る。
だが過程のなかで、放逐すると言い渡した者にすら、天の為に働けという命を下すことに、孟章は不信を持っている。
あまりに勝手ではないか。
孟章がそう思うのは、天の仕来たりを恨んでいるからというよりも、己の中に匿された孤独とは違う、隔絶や隔世の感に依るもののためである。
孟章は独りで過ごすうち、そういう自分の稚さについても、はっきりと理解するようになった。
だが、己が稚いと分かった所で、この鬱憤が一度に晴れやかにはならない。こうして父の軍旅に身を投じずに、単独で天市垣に乗り込んだのは、孟章が犯した多少の意趣返しであった。
孟章は腕を組んだ。義憤とは、このことである。
独りで過ごすようになってから、孟章は他の神と、ほとんど顔を合わせてない。数多の神々がいる中で、付き合いがあるのは五神の面々と、何故かたびたび顔を伺いに来る、姫軒轅くらいなものである。天市垣に居る神や仙人の類とは、付き合いなぞ無い。
それでも孟章は、天市垣に住む者どもの顔を勝手に想像し、守らねばならないと決意した。
己ができること、彼らの求めているもの。その区別が付かないほど、孟章は稚い訳では無い。
市楼の楼閣、その頂上。欄干に立てかけておいた斧を手に取った。
孟章は飛び降りた。地に足が着き、震動が起こった。
目前に端下の怪がいる。孟章は斧を振り抜き、怪の首を刎ねた。悲鳴を上げさせる暇は与えない。
孟章は己の持つ膂力と、盈溢した気迫とを以て、付近を圧倒し始めた。木っ端を飛ばすが如く、怪を殺し尽くした。
天市垣は神仙が棲まう処である。庵が其処かしこにある。孟章はまた、目を凝らした。
ひとつの庵に、怪が群がっていた。
怪どもの頭部は個々の形状を失くし、遠目に見れば波の様にうねっている。その混雑の中でも戸を叩き、牖を外そうとして、身を藻掻かせているのがわかった。
やはり、こんどの怪は何時もの悪徳に比べて卑賤極まりない。孟章は目を鋭くして、その庵の方向に駆け出した。
怪の背後に辿り着いた瞬間、孟章は斧を一閃、横に払った。数十が、肉塊となった。
この怪は金切り声で鳴く。何かが壊れる直前に出すような音である。耳障りで不快でしかない。姿も羽毛を生じぬ孵りかけの鳥の雛に人の頭を乗せたような風体で、なにか芯の一本入ったような印象というものは、感じることが無い。
情に倚りかかるなら、本当はこれほど卑賤な血で、己の得物を汚したくない。
それでも、孟章は大群を盡滅させねばならない。
庵の中から声が聞こえる。
孟章は兎に角、己の斧を振り回した。
いちどに五匹は斬った。いつの間にか孟章は、怪から噴き出た血潮によって、己の体や鬚髪を赤黒く染め上げていた。
血が左目に入った。血の中の瘴気が強い。暫く開けなくなった。
二百、三百と斬り伏せて、ようやっと家の間口が見え始めた。
あと、もう少しの辛抱だ。孟章は心の中で、庵の中に閉じ籠っている誰かに向かい、呼び掛けた。
屋根の上から怪が身を躍らせ、飛び掛かって来た。
孟章はその頭頂から股下へ、唐竹割りに割った。
暫くのあいだ躍動した孟章は、周りの怪が悉く屍となったと確かめると、庵の戸口に手をかけた。
不自然にずれて建付けの悪い引き戸を、腕に力を込めて無理矢理に開けた。孟章の膂力によって、戸はへしゃげる音を立てながら折れ曲がり、庵の中に向かって光が差し込んだ。
中には大小十人足らずの仙人が身を寄せ合っていた。他を庇うように立っている者もいれば、肩を震わせ目を外に向けたがらない者もいる。
仙人たちは、孟章の姿を認めた時も、訝しむ様子を崩さなかった。
気の強そうな仙人の一人が、孟章の気配が清浄であることを感じ取ったのか、歩を進めてきた。
「お主はもしや、龍か」
孟章は少しばかり言葉に詰まりながらも、まあそうだ、と言った。
言葉をかけてきた仙人は、頼りになる者が来たと思ったのか、孟章に深く頭を下げた。
孟章は仙人の肩を支え、下げられた頭を上げさせた。
仙人たちの先導を、孟章は引き受けた。
ひとまずは庵よりも安全であろうという処にまで誘導した。腰を抜かしてしまった者については、孟章が自ら背負った。
それなりの距離を歩いた。たぶん、百里ほどである。
動くのに慣れていない仙人もいる。そういった者は、天界の混沌とした雰囲気にも吞まれ、疲弊の表情を隠せていなかった。
その表情を慮った孟章が、もう少し歩けば身を安んじられると話すと、仙人達は瞬く間に活気を取り戻した。
着いたのは南海の、城郭の一角である。ここならば壁も重厚で、妖魔に群がられるだけではびくともしないだろう、と見立てがついている。
仙人は皆
「有難や、有難や」
と、口々に唱えていた。
孟章は、揖礼をしながら謝意を示す仙人達の行動を制した。
己は、己の思うが儘に行動をしたのみである。そういう我儘さに感謝をするくらいならば、他の者が困っているときに手助けをした方が、余程に善いではないか。
仙人達に諄々と唱えた孟章は、返答も待たずに、また天市垣のどこかに起こっている災禍へ目掛けて去っていった。
仙人たちは去っていく孟章を見て、棚引く髪の下に隠れていた背中の、余りの傷の多さに驚いた。
武に秀でている神ならば、傷を負う前に敵を屠ってしまう。武事に関わらない神であれば、そもそも傷を負う事が無い。
仙人たちが見る限り、孟章は天界の誰よりも強力な武神の一柱である。
果たして何故ここまで傷が多くなるのかと、皆が首を捻った。