大河滔々、星塵炯々。
執明は目の前の光景に心を揺蕩せ、頭の中で詩歌にも似た八字を唱えた。
執明は今、斗宿の城郭から延びる桟橋の先に居て、目の前に流れている銀河(天の川)を眺めている。
突如あらわれた怪の大群に対処するため、天の水軍が所有する軍艦の大小千隻を斗宿の湊に集めている最中の、小休息であった。
兵の一人が執明のもとに駆け寄り、跪いて一言
「軍艦千隻、集まりました」
との報告をした。
執明は兵の目線に合わせるように、己も屈み、手を取って、労いの言葉をかけた。
兵は、天の水軍の大元帥とも謂える執明から直接に誉められたものだから、喜びによって破顔し、足元を溌溂とさせて持ち場へと戻っていく。
兵というものは単純である。誉めれば喜躍し、貶せば怒りの矛先を向けてくる。
故に執明は、兵をなるべく激賞するようにしている。
兵と接するということは案外、気を遣う。気を遣いすぎて己の意の捌け処を失うこともあった。多少の無理はあったが、多くの兵が持っている単純な精神の構造こそが、強さに繋がることもある。
己は兵の感情の捌け口として、全てを抱擁しなければならない。執明の将としての理念であった。
気が耐えられなくなれば、このように河を眺めて詩の一編でも吟じてみれば良かった。自然と心は平静を取り戻していく。
執明には昔、羨んだ存在がいる。先代の天蓬元帥である。
今の天蓬元帥ではない。当代の神は無骨で、執明が己の身を任せられるほどに洗練された性格を持っていない。
だが先代の「天蓬」と愛称された男神は、それまでの天界には他にいなかったような、突き抜けた能力が在ったと、執明は睹ている。
彼は誰よりも人懐っこく、女癖が悪く、それでいて武将としての腕前は卓越していた。
力で当たっても撃てないと決まった時、自身から少数の兵と共に艨衝(突撃用の船)に乗り込み、敵に向かって突っ込んだりもする。
一方、戦場から離れれば、麾下の兵と懇ろになって酒宴を開いてもいた。
酒宴の中に居る時の、無理を一切しない自然体な態度が、将という役職によって己を塞いでいる執明にとって、堪らなく羨ましかったのである。
天蓬は女癖の悪さを拗らせて、嫦娥に手を出そうとし、ついに下界に突き堕とされた。
その始末というのは執明にとって、天の水軍と己の心情に於いて、多大な損害を被ったように感じたものである。
銀河の先で何かが跳ねた。
煌びやかに光る水面が、幾重もの円を描いて揺れた。
いよいよ、出なければならない。
執明は己の甲冑を締め直し、得物の大弓を持って、楼船の渟まる場所へと向かった。
渟められている船の中には、既に大勢の兵が詰めていた。
百隻の楼船(楼閣の具えられた船)に二千五百人ずつ。三百隻の闘艦(中型の戦艦)に千五百人ずつ。六百隻の艨衝に五百人ずつ。
計して船千隻、兵百万人を詰めさせて、銀河中を渡河し始めた。
暫くして船団が、河の中程まで行き、流れに沿って紫微垣の方角に向かい始めた頃である。
突如として一隻の闘艦が、何か大きなものにぶつかった。
執明の乗り込んでいた楼船の頂上にて、四方を見渡していた偵察兵はすぐに気が付き、楼船の中の将帥閤(将軍の居所)に羽書(急報)を送った。
執明も羽書が辿り着く前に、異変に気が付いていた。いつも渡航する時に聞こえないような音が、彼方から聞こえたのだ。
執明は将帥閤から出て、異変の正体を確かめようとした。
立ち上がった時に戸が開いて、羽書を携えた兵が一人、飛び込んできた。
「闘艦が一隻、襲われました!」
兵の発した言葉を、執明は心を乱さずに受け取った。
動転した表情を見せれば、兵は忽ちに混乱する。羽書を披き、伝えることを確かめると、そのまま甲板に向かった。
事を執明に報告した兵は、焦りを隠さず
「あれは多分、烏賊の類ですが──闘艦よりも遥かに巨大です」
と、言っている。
既に甲板に出ていた兵もまた、各々が音の鳴る方に指をさし、恐懼する表情を見せていた。
執明は兵の睹る方向へ、目を向けた。
確かに巨大である。
体軀の大きさは、水中から出る触腕が闘艦を一抱えに絡めているから判る。飛沫を上げ、船を揺さぶり、引き摺り込もうと企んでいるらしい。
執明はすぐに、艪手(船の漕ぎ手)に命を発して、己の乗っている楼船を、襲われている闘艦へと進ませ始めた。
また同時に旗手(指示の為の旗振り役)へ号令して、周囲に百隻余りの楼船、闘艦、艨衝を引き寄せさせた。そしてこれらの船を、襲撃されている闘艦の周りに、円弧を描かせるように動かした。
たかが烏賊といっても、小島ほどの巨大さである。戮力し、互いに連携を取り合わなければ、撃退することにも難儀するに違いなかった。
船に在る長短の武器では、歯が立ちそうに無い。返り討ちにされるだろうと、遠隔より弓弩を射かけることで、触腕を剝がそうと試みた。
四方八方より千矢万箭を射掛けに射掛けた。怪は怯むことを知らない。むしろ余りの射撃のしつこさに肚を立てて、より激しく暴れるようになった。
これでは沈む。
執明は仕方が無いと、己の大弓を弾き、精を大矢に変えて、烏賊の触腕に向けて狙いを定めた。
執明の一矢は勁い。
狙いを外し闘艦に中れば、一撃にして闘艦の方が沈み、烏賊の餌になる。
不安が在ったからこそ、執明は暫く様子を見ていた。だが、ここまで勢が悪ければ、手を出さねば仕方が無い。
睹る先を一点に集中し、烏賊の触腕以外が見えないほどになった。執明はすかさず
びゅおっ
と、矢を放った。
矢は光の尾を発し、夜半の水上を穿つように進んだ。そして、みごと怪の触腕に命中した。
触腕が闘艦から離れた。
この光景は矢を幾ら射てども、撃退するどころか腕一本すら剝がせなかった兵の意気を、いちどに揚げた。
これぞ、まさに水軍の大元帥である。そう快哉しない兵はいない。
ここでの昂揚は大きい。兵は更に激しく矢を射込み、また松明に火を点けたものを投げつけ、或いは当に襲われている闘艦の中からも、鈀や矛、斧を使って烏賊の触腕に向かって攻め手を加えるに至った。
どれほど続いたか。恐らくは一刻半から二刻(三時間から四時間)の間である。それほどの長い間、執明と兵は、巨大な怪と戦い続け、遂に
「逃げていくぞ!これ以上、害を為せないように叩きまくれ!」
という声が上がるほどの優勢に持ち込んだ。
言葉の通り、兵は未だ矢を射つことを止めず、また追跡を試みた船も出た。
執明としては面白くない。ほんとうに戦うべき相手は、紫微垣の中に居る。ここで遭遇した怪などは、立場の違う端下に過ぎない。
いま消耗すれば、後で困難する。
執明は余り気が乗らないまでも、再び大弓を弾いて怪の目に狙いを定め、一射を放った。
目が抉られ、河中へと沈んでいく。
襲われた闘艦は舳先が根元から折れ、帆も幾らか使えなくされたが、航行に支障が無いほどの損害で済んだ。
遠目に確認した執明は、旗手に各船を元に戻らせよと伝えて将帥閤に戻た。
紫微垣での戦闘に備えて、身を休めるべきであった。しかし執明の疲労とは別に、甲板の兵は快哉と喚呼することを止めなかった。
歓声が将帥閤にまで轟いてくる。執明の眠りを妨げるほどの大きさであった。
紫微垣まで、まだ遠い。水陸を行かなければ、辿り着くことはできない。