井之章「孟章は来援したり、泰山の区園を探る」 三話
各々、溜まった息を吐き出している最中だった。吐いているはずだったが、陵光なぞは孟章の詰問らしき言葉に一瞬息を詰まらせた。
少し唾を吞み込んだ後に、陵光は口を開いた。
「やらかした、と言うと正直には」
「んだ? そんなに穢れたことをしたのか」
「そういう訳では無い。ただ何故、敵対したのかということ自体が──」
「わからねえか」
「ああ」
孟章は己の碧緑の髪を手で掻いて、口と頬を歪ませている。
舌打ちが鳴る。
「孟章、苦労を掛けたな」
「良んだよ。あんだけ騒いでたら見付けるに決まってる」
少し休もう、と孟章は付け加えた。己らがどうこうというより、丁淩の具合からそう思ったらしい。
些細に、木の葉の掠れる音に包まれた。
音を聞きながらも、監兵や執明はどうしているのかと陵光は目を配った。執明は腰を落ち着けて静寂としているが、監兵の姿が無い。いつの間に、と辺りを探した。
草を踏む音がしている。孟章の方からではないかと感じた陵光は、そちらに目を向けた。
やはりそうであった。孟章の背後で、監兵の瑠璃色の目が下げられていた。
「兄哥──」
監兵は声を発した瞬間、後ろから孟章の髪を思い切り引っ張り始めた。
孟章も大力の持ち主とはいえ、乱暴に手練れている監兵に不意を衝かれると、対処のしようが無い。
「痛えから止めろ! 豎子!」
孟章は大呼しているが、監兵は抑えたがらなかった。綱を引くように体を傾けてさえいる。
これでは、いきなり仲違いするのではないか。そう不安になった陵光は、急いで監兵の傍に回った。そして引っ張り続けている監兵の手首を掴んで、手に熱を籠めた。
「あつっ!」
孟章の髪から、監兵の手が離れた。気が抜ける時の吐息が、孟章の口から零れている。
陵光は監兵の手首を掴んだままで、孟章の頭に傷が付いていないかを確かめていた。もちろん孟章もそこまで脆い身体では無かろうが、という前置きもしながらである。
監兵を握る手には、弱く熱を籠め続けている。喚かれはしたが、あまり簡単に自由を許すにもいかない。
「すまねえ」
孟章が陵光に謝してきた。陵光は眉を顰めつつ、それに応えた。
「良い。──監兵は私の隣に置いておくが、孟章も気を抜くなよ」
「だな。しばらくの間に、こういう事も忘れちまってた」
孟章は嘲る様に笑っていた。頭の摩り方を察るに、本当はだいぶ痛かったのかもしれない。だがこうして流せるのは、孟章らしい部分でもある。
──こういう者こそが徳者なのだ
などと、陵光はつくづく思っていた。
とはいえ、である。
陵光は監兵の手を牽いて、孟章との間に己を挟んで座らせた。監兵は孟章の側へ行きたがったが、そこは手を固めて下に引き落とした。
「──はあ。んで、執明は」
孟章が今度は、執明を気に掛けている。
執明は片膝を立てながら、他の会話を聞くことに徹していた。再会に準じてなぜ言葉を発しないのか、そういう意図が孟章に有ったのだろうと、陵光は思っている。
「良いでしょ? せっかく早めに会えたんだから、少しくらい気を抜いてても」
「それも、そうだな」
執明の返答に、孟章は細かく頷いていた。貌が曇っている様にも察えた。
「でも、なんだけど」
執明は話を切り替えようとしている。話題を受けるのに、陵光が相手となった。
「違和が」
「甲が無い。置いてきちゃったわよね?」
執明は珍しく、舐めるような微笑みを湛えていない。首を傾げて、目だけで煽っている。
陵光は己の腕を見た。汉中で購った黒い衫の袖である。常に甲としていた金銀の腕甲では無い。
途端に
──やってしまった
と、慚愧した。逃げることに夢中で、甲の存在をつい忘れていた。甲が無ければ、何か変事が起こった時に極めて不利になる。人相手には必要無くても
「もしも怪が来れば、この衣では不安ですね」
という判断は、容易に出来上がった。
この中では唯一、孟章だけが甲を身に纏っている。頑丈な腹帯、鱗の模様が有る腕被や腰布も全く変わっていない。何か起こってから孟章ばかりに頼るのも、あまりに偏重となる。
「ならば、持ち出しに行きましょう」
そのように陵光は言った。
「良いけど、どうやる?」
こういう策の部分には、絶対に執明が口を挟むものであった。
「甲は恐らく、今も车の中に在るでしょう。だとすれば、再び中に飛び込むしかありません」
「皆で行くの?」
「その様にはしません。丁淩殿の事もある」
「で?」
執明は片膝を立てた。それを両腕で抱えながら、陵光へと訊ねてくる。
当然だという調子で、陵光は答えた。
「孟章と、私で」
言った途端、孟章が意外という貌で陵光を睹た。
「俺か? 執明と監兵は」
「良い。執明殿には不意の時に、単独で逃げられるようにして頂きたい。監兵は、その護衛を」
監兵は面白く無さそうであった。だが陵光にとっては
──土地も考えれば、最も適当だ
という考えがある。
執明も一柱ごとの顔を確認した後、手の指を顔に沿わせている。
「そうね。行ってらっしゃい」
肯諾は早かった。執明も凡そ、それで良いだろうと思ったらしい。
「では」
「彼は、私たちよね?」
「丁淩殿ですか。お願いしたい」
「ええ」
「解って頂けたのなら、それで参りましょう。孟章、行こう」
「ん? ああ。そんじゃまあ、いっちょそうすっか」
孟章は腰を持ち上げた。
執明へと監兵を宜しく頼むと告げた陵光は、指向を施し、いちど奥にまで入った山林から再び街の方角へと下りて行った。
街路の近く、視界が開ける直前である。
木々の間から向こう側に、全くとは謂えずとも人衆が集っているのが瞰えていた。
陵光は既に、大桿刀を手にしている。
「そんなもん、珍しいな」
孟章が大桿刀へと関心を向けてきている。確かに陵光からしてみても、先の揉み合いの中で使い始めたばかりであった。
「多少な」
「義兄弟の多少ってえと、そんな感じもしねえが──」
「それより、孟章も準備したらどうだ?」
話題を断つような陵光の言に、孟章は右手を何度か軽く握っている。
「俺らの相手は人だろ?」
「人だと知ってるんだな」
「──まあな。そいつらに天の兵器を使うのか?」
陵光は僅かに口籠った。考えを整えた後で、しかしと口を開いた。
「遠ざけるんだ」
「兵器でか」
「そうだ。徒手で戦えば間合いが取れないだろう。ならば兵器を使い、避けさせた方が良くはないか?」
孟章は黙っていたが、何も言わないまま、握っていた右の掌中に斧を顕した。
長八尺、柄周り一尺半。刃の峰部分にも持ち手が設えられ、孟章はそこを把持している。
「義兄弟の言う通りだな。そうする」
低い声だったが、少なくとも信頼した口調だと陵光は感じていた。孟章は何も見ず、陵光という神格を認める所がある。
陵光にとって、よく理解できる安堵であった。
「よし。隙ができたら、行くぞ」
陵光は告げた。
孟章は首から、陵光へと目を向けた。
──わかった
ということなのだろう。それから木蔭に紛れて、二柱は只管に時機を待った。
待ち続けたが中々、隙が生まれない。
取り巻きが衆いのである。それぞれの目が複雑に交差して、警戒しない瞬間が成されない。陽動をしてみる気にもなったが、二柱だけでやることでも無かった。
丁淩が馭し、陵光らが運ばれていた车に、警察ほか多々の人が検めを掛けているのも瞰える。あまり直接、甲に触れられるのも拙い。
「拙くねぇか」
陵光と同じような考えを、孟章は口にしている。
「拙い」
「早く行こうぜ、もう待つべきじゃねえだろ」
そうかもしれない、と陵光も思った。ならばと動く事に決めた。
「私は上から」
「俺は下か」
「そうしてくれ。私は察し得ない処から、一足で车にまで」
「よっしゃ、そうしろ」
孟章は、陵光の表情を確りと見据えた後で単身、木蔭から出て行った。
その姿が衆前に露わになる前に、陵光は上へと跳び上がった。




