前を睹た。路は塞がれていない。
後ろを瞰た。何乗かの车が、陵光らの乗る车の横へ駙けようとしている。
济南から泰山に向かえば左に山肌が在り、それを仰ぎながら南行をしていく。
路も、気にならないほど緩慢な曲がりの連続であった。故に丁淩は、周り一般に比べて猛然とした速度で车を走らせている。
それでも撒けない。
追手も车の馭には手練れているらしく、一筋縄ではいかないと察する所であった。
柴油の残りを示す針を、陵光は視た。市街が続いたこともあって、西海镇から吕梁へ辿った時に比べれば余裕がある。
これならば一息に走り続けていても、息切れしないかもしれない。
「逃げるばかりだと並ばれますな」
陵光は言ちた。執明に向かってである。
少しばかり陵光が考えていたのは、この場で追手に対せるのは執明の兵器のみであろう、という事だった。
陵光や監兵の使うような剣や鉤爪は、追手を止めるという意味で謂えば向かない。
執明は静かだった。静かなままで步枪を顕した。
六尺ばかりの長さ、杖のような形状。根がややも曲がり広がって、杠杆なる護拳のような造りと懸刀が有る。杖の一端、筒の先から弾が射たれていたのだろう。陵光も己の装備に敏感になった分、そういう観察が捗っていた。
加特林机を顕さないのは、この場では相応しくないからなのだ。巨大すぎるし、過剰である。
執明は步枪の筒の先を、狙いを定める為に车の外へと放り出している。
そうして執明が目立っている内に、陵光は反対側の窓を開けた。監兵か己が出ねばならなくなった時に、すぐ出られるようにする為だった。
「良い?」
執明が步枪を構えたまま、言葉だけで確認をしてきた。
「宜しい。車輪を──」
「解ってる」
執明はやり取りを終えた途端、一発の弾を放った。步枪の音では無い、強い破裂音が外から聞こえた。
陵光は監兵に目を合わせた。
「監兵、こっちに来い」
「えっ」
「出やすいだろう」
監兵の反応が済まない内に、陵光はその腕を掴んで窓の側へと監兵を移した。しぜん執明の隣に動いた陵光は、執明の脇から外を窺った。
見えた追手の车は五乗。監兵とやり取りしている内にも二乗の车の車輪を、執明は射ち抜いていた。各々一輪ずつを使えなくしている。
「二輪を落とさぬのですか」
陵光は訝しんだ事を、執明へと訊いた。
「え?」
執明は目の端を、少しだけ陵光に向けた。陵光の顔が瞥えて意図を察したのか、執明は鼻哂しながら外へ向き直した。
「解らないの?」
「数は少ない方が好いのでは」
「文吏っぽいわね──完全に止めない方が好いわよ」
「はあ」
「行けそうだと思わせれば、いちばん消耗させられる。無理をして貰うの」
車輪をまた一つ、執明は射ち抜いた。
陵光は言葉を断った。納得できない気もした。同時に、将帥たるとはこういう事なのだろうと肯諾できもした。
執明の中に在る判断とは、文吏らしい是か非かだけでは無い気がしたのだ。現に止めないと言いつつも、追手の车へ步枪を向けているのが証左である。
──このままなら、あまり口を出すべきではないか
陵光は顧みた。監兵が腰から上を、窓の外へ向かわす様に傾けている。
監兵の左の肘を、陵光は掣いた。まだ行くな、と伝える為である。監兵から返された力は勁い。
それでも行かせぬ、とする代わりに陵光は監兵へ
「何乗居る。数えろ」
とだけ、指示をした。
監兵の目は動いているらしい。気は逸れたか。
「たぶん、二」
「二か。突飛な事をしてこない限りは堪えろ」
もしかしたら、執明の持っているような步枪を使われるかもしれない。
陵光は、西宁で人の步枪が効かぬと解っている。監兵も同様であろうと思っている。執明も射たれる前に対処できよう。ただ、丁淩は如何となるか。筒のような物を向けられた時には監兵の肘を放そうと、陵光は思っている。
车は唸りを止ませず、左右の山が開ける辺りにまで進んだ。
今までの山隘の路から、また市街と呼べる処へ入っている。今までの、ただ交通の為だけに在ったような路が、街衢らしい曲がりくねった路へと変わっていった。
真っ直ぐは進めない。速くもなれない。左右し、都度に詰まりかけ、丁淩の馭の仕方も激しくなった。
そして市街に入った途端、追手が増えたようであった。この地の兵やら警察という者共が加勢しているのだろうとは判った。
面倒事である。泰山には用事がある。孟章を捜すこともそうだし、青海湖に出会った孰湖という山神から言われた五岳の神にも、確か泰山は含まれていると憶えていた。
少し、監兵の肘を掣く手が緩んだ。いかんと思って、すぐに掴みなおした。
「駄目ね──」
執明は応戦し続けているが、遂にそのような事を言い始めている。
薄々、陵光もその通りであろうと感じてきている。
「どこで降りましょう。広い処が好いとも思います」
陵光は言葉を発した。違う、という仕草を執明からされた。
「狭い方が好いわね。せっかく山も在る」
ならば山の蔭を頼れという事であろうと解して、陵光は目を見開いて辺りを確かめた。
──純然と市街ではないか
そのようにしか思わない。街衢が整備されきっていて、身を晦ますなどできそうに無い。
出来得るとすれば、山そのものを頼るべきではないか。陵光にとっては当然の帰結であった。
「山へ」
「行かせる」
執明は、陵光の言葉を遮って短く応えた。陵光の考えと同じであったらしい。
執明が丁淩へと言葉を掛けた。淡々と相槌を打った丁淩は、山へ向けて车の馭を切った。
周りの追手に気が付かない者は居ない。読んでいたかの様に追走してくる。
そもそも地の利は相手に有る。その中で逃げ切ろうなどとは無謀にも比い。そう考えるのならば、何所まで扞拒するかを陵光は覚えておかねばならなかった。
もう完全に非暴力という訳にもいかないし、かといって虐意を持ったやり方もいけない。それを判断するのに監兵は無慮であり、執明は冷徹過ぎた。丁淩は、そもそも判断できる類の者であろうか。
陵光は考えに考えて、いつの間にか山が眼前に在った。嗚呼と呻った。
三柱立って丁淩を车の中へ置いたまま、地に足を着けた。
執明は出るなり、螺旋する機構を持った大きな器械を両腕で提げている。弾をばら撒く為に、加特林机に変えたのだ。
監兵は何時も使っている、白金の五刃が付けられた鉤爪の手甲を顕している。
もう退けない。陵光は剣を顕そうとしたが、思い出したのも有る。己の役割を察たのもある。両手に大桿刀を模した八尺の兵器を顕し、鐏を地に落とした。
どこまで斬ろうかとも思った。
警察らが车を降りて、陵光らに大きく目を剝いている。幾らかの警察は、既に懐から小さな步枪を取り出して構えを取っている。
赫怒しているのかもしれず、畏懼が在るのかもしれなかった。そこまでは、見ているだけでは判らない。ここまでされれば、陵光はなお不安になった。
「監兵、殺しだけはするな」
陵光は監兵へと目を向けた。
噓だろう、という意を監兵から向けられた気もしている。それでも一番確固としなければならぬ所だと、陵光は決めていた。
監兵の目が、警察の側へと戻った。
両者とも、相手の傍へは踏み込めない。先陣を切るなら己であろうと、陵光は覚悟していた。
大桿刀の切っ先を相手に向けないようにした。向けた瞬間に仇になる。
動きを視なければならないから、監兵や執明へ構う余裕も無い。丁淩が背後から襲われるのも有り得る。
警察の何人かが膝を揺らしていた。練度の高い兵はそのような体勢も仕草もしない。
ならば練度も高くない。なおさら手を出し辛い。陵光はまだしも、もしも監兵が突っ込んだ時には受けるだけの力量が、相手に有るとは思えなかった。
なんとか光明を見出すまで、動いてはならないのだ。