鬼之章「危に東を指すを画し、泰山下に窿を望む」 五話
大路を往かぬと決めていても、吕梁から東は大きな市街を巡るようになった。
山間の隘路を過ぎて東北、二百五十里ばかりで太原、晋中。
また東に三百里ばかり、また山隘を越えて阳泉。
そして暫く山の傍らをなぞった。二百里も往けば、一際大きく広がった石家庄という市街に入る。ここが凡そ、吕梁から泰山までへの中程であるという。
三柱、そして丁淩は
──车から降りられるか
という話になった。今までの市街でも、三柱が车の外に敢えて身を露わにしようと思った事は無い。
偶には出ていた。だがそれも周りに気を掛けながら、车に柴油を吞ませるという目的がある場合に限ってである。あとは監兵が暇を持て余して、大きく手脚を伸ばしている時くらいか。
ともかく、それ以外には出る意味が無かった。己らは目立つし、怪も出没はしていない。追われている身なのだ、ということを忘却してはいけなかった。
陵光には拱黙が多くなった。
吕梁での件で、執明との会話が少なくなったのもある。険悪になったと断ずるよりも、間を取っているのだ。どう在ろうと天を倶にせねばならぬ。
だから黙っている間に、陵光は次を考えていた。想ったのは、牛怪と馬怪とを相手取った時の動きである。
判断が拙かった、相手が悪かった、幼子を守らなければいけなかった。それぞれが劣勢になる要素ではあったが、もっと感じたのは
──剣だけというのも辛いか
という一考であった。
監兵も執明も戦い慣れている。武神だからである。
監兵は言わずもがな、執明も水軍の将帥であるのだ。鉤爪であれ步枪なる物であれ、多少は己の使い慣れそうな兵器を、経験則から顕しているに違いなかった。
それに対して陵光はと謂えば、取り敢えず剣を顕しているだけである。戦う為というよりも身近な物であるのみだったと、考えてみればそうであった。
「執明殿。貴女は步枪の他にも使っていますな」
陵光が吕梁から石家庄の間で発した、数少ない言葉である。
そういえば執明が放つ水弾は、疎らに撒く時と一撃を加える時とで分かれているようだと、憶えていたのである。
陵光の問いを耳にした執明は、窓の外を眺めていた目を、眸だけ陵光へ向けてほんのり笑った。
「気になる?」
「──」
「加特林机。使い分けてる」
無言のまま、やはりかと陵光は思った。質が違うと感じていたのは、噓では無かったのだ。
執明から
「骨でも教えてあげようかしら?」
などとも言われたが、陵光は首を横に振るだけで答えた。後は己で考える領分なのだ。
それを纏める為にも、始終黙ったのである。
石家庄の市街でも、柴油を積むという事になった。
陵光は用心のし過ぎで、逆に用心が薄れていまいかとも疑ったが、土地の移動の時には糧秣が十全で無いと不安なものだと解っていたから、敢えて詰問もしなかった。
「靠──应该带现金来的」
丁淩はそのように宣いながら、付近で手に入れてきた飯を適当に口へ運んでいる。
陵光は少し離れて、陰になっている処を探し、腕を拱いて佇んでいた。
初めて、戦いの面で試してみようと思い立ったことがある。闘争したいという乱暴な好奇心では無い。次に何かが起こったのなら、できうれば試してみようというだけの事であった。
大桿刀という刀がある。或いは双手帯とか朴刀とかとも呼ばれる兵器である。広い身幅の反った刃と長い柄が拵えられていて、大抵は卒伍の兵が使うようなものであった。
だからこそ、丁度良いと思った。
「兄々、むずかしい」
監兵である。黙る陵光に合わせて、吕梁から言葉を掛けて来なかった。その代わりによく、顔を覗き込む仕草をしていた。
二日も無いくらいである。それでも監兵の忙しい性からしてみれば、かなり我慢していたのだろう。
「むずかしい。貌がか」
「うん。やっぱりお姉ちゃんのこと、きらい?」
陵光はややも黙った。他の事を考えていたというのもある。監兵の倫理に合わせるのなら、嫌いだと言った瞬間に全く執明を拒絶している、と受け取られるかもしれない。
──逸らかすのも監兵に善くない
などとすら、師たる者として慮っている。
「全きに疾んでいるとは言えない」
陵光にとっても、結局はそういう答えであった。
「じゃ、平気」
監兵は微笑んでいた。
それからまた、数日が経った。
石家庄からは、只管に東南へ指向しようという路程であった。そこに石家庄の様な大都が在ったかといえば、そこまででは無かった。
しかし
「周りに兵はいますか、執明殿」
「いいえ? でも人の目が気になるわね」
という会話が、陵光と執明の間で頻繁に交わされるようになっていた。
石家庄から七、八百里は车を飛ばし、その間で段々と人から向けられる目が変わってきていた。
陵光らの間で誰から風向きが悪そうだと感じ出したのか、推察も利かないほど皆が同じくして察した事である。
監兵の目は爛々としている。陵光は判っていた。
戦が起きそうな時に、監兵はそういう表情をする。そしてそれは、陵光にとっての眉間の皺に比い生理らしい。
「監兵」
「んあ?」
「周りを瞰て、どう思う」
「うぅん──」
監兵の口が曲がった。车の窓外を凝視している。
「おっきい川を渡ったよね?」
「そうだな」
「川があるなら、追いやすいかな」
「そうか」
陵光はそこまでで話を切った。確か渡ってきた川というのは、この地で黄河と云うのだ。今までも度々聞いてきた名である。
そして今の地を济南と云い、南に泰山の群峰が集っているはずだった。
これまで進んだ距離を鑑みれば泰山まで近々である。とはいえ、まだ百五十里ほど有るという。そして監兵の言を信ずるのならば
──百を往くんば九十を以て半ばとす
と心に留めておかねば、足を掬われかねない。久々の大都、兵の差配を考えれば落差も大きいだろう。
執明が不意に、身を前へと乗り出した。
「丁淩」
「嗯──」
「开快点」
「出什么事了?」
静かな口調で、執明と丁淩がやり取りをしている。
「来了」
「嗯?」
丁淩の首が左右を向いたとは、陵光から陰となっていても察えた。監兵は目を逸らしているが、陵光は簡辨している。
執明は何か異常を伝えたのだ。丁淩もそれを受けて、自身の目で確認をしている最中なのである。
陵光も少しだけ、车の外を窺った。執明の意図も組みながら、何に怪しさを感じたのかを探っていく。
──あれか
と、思うものがある。
不自然な目の動きをしている者と、先を傾けて停められた车が数乗。车を傾けているのは、発たせやすくしている為だろう。
丁淩は徐々に车を速めている。目を惹きたくない想いは強いだろうが、それでも周りが遅くなっていくだけ自然と目立った。
陵光は顧みた。背後からの追手は居ないか。
先に見かけた车が来ている気がする。明らかに速さを合わせているのが何乗か居るのである。
「どうされますか」
接頭も無しに、陵光は言葉を発した。
「泰山まで、このまま」
執明が答えた。
「保てますか」
「保たないのなら车を乗り棄てて、往なすしかない」
なら、監兵に備えさせるべきではないかと陵光は考えた。
南行する。
両側が峰になる。
隘を一直線に進むしかない。西海镇での事も考えれば、嚢中の虜であるとも考えねばならない。
泰山へはまず、孟章の消息を尋ねに来たはずだった。こんなばかりで捜しなぞできるのだろうか。そういう不安が在る。
车は走る。一刻に四百里は進みそうな勢いである。
それでも尚、追手は近寄って来てすらいる。
南に瞰える山は隆々としている。
もう逃げるしか無かろうとしか、今は思えていない。




