鬼之章「危に東を指すを画し、泰山下に窿を望む」 四話
陵光は剣の切っ先を下げ、弾雨の来た方向へと首を回した。
「余所見しない!」
そういう声である。草の音に覆われているが、執明であると知った。
言われた事は正しい。今の仕草は数多の怪へと隙を曝しているではないか。陵光は元の通りに正対して、剣の構えも戻し上げた。
蔭。剽いが杵突くような跫音。
陵光は姿勢を変えなかった。聞き馴染んでいる跫音なのだ。
監兵である。青い枝葉を突き破る音を鳴らして、跳び上がるように姿を現している。
現れると同時に馬怪を二三、鉤爪で斬り裂いた。怪の斃れる音が、土に湿っぽく響く。
「何故来た」
陵光は監兵の横顔に、ふと問い掛けた。
「ん?」
「何故来れた、と言った方が良いか」
「匂いだよ!」
監兵はそういう所でも鼻が利くらしい。問答を終えるなり、駆けてきた馬怪をまた一匹夷していた。
「執明殿は」
「繫みの中。それでわかるでしょって」
陵光は肯んじた。ならば己が示しておくべきは絞られている。
「監兵は馬怪を処しろ。私は牛の形に対する」
「うん。水のにおいだもん」
監兵は承諾してすぐに、群れて駆ける馬怪を正面とした。
「ここはやれ」
陵光の言葉で堰を切って、監兵は驀進している。周りの木の幹すら利用しながら、目で追わせない跳躍を繰り返し馬怪を斬り伏せていった。
あっという間に怪の数が減っていく。流し目に、陵光は牛怪へと突っ込んだ。
弾雨は止んでいた。先の位置に執明が居るのかとも思ったが、そうとも限らない。まずは動く。動きながら隙を生ませるのである。
先に弾き飛ばされたのもある。だから大仰には踏み込まない。
牛怪が毛でありながら火の気を持ち得ているのに、陵光は気が付いていた。だから己よりも執明に、痛撃を任せるべきだと思っている。
周りを駆けつつ、動作を俯瞰する。角が来るようであれば潜り、蹴られそうになれば身を翻した。
動きが単調になったと思えば、すぐに切り返して牛怪の惑乱を誘いもした。皮の表を僅かに斬り、陵光から注意を逸らさせない様にもした。
脚の腱は断たない。まず疲弊させるのだ。
「ねえ!」
監兵が陵光の視界の外で声を上げている。
もう馬怪を仕留め切ったのだろうが、そこがやはり戦神らしかった。恐らくは背後で、牛怪へと狙いを変え定めている。
陵光は背を向ける事しかできていないが、むしろ無言であったのが監兵を留めていた。戦や兵に従順である分、要らぬ動きをせぬというのも戦に身を置いた者らしくある。
それで良かった。牛怪には火の気も在るから、監兵には手を出されたくない。
弾雨がまた降り始めた。今度は先の場所よりも少し低きから飛来している。
陵光は弾雨と己との間に牛怪の巨躯を挟んだ。
もう攻め手を弱いままにしておく必要も無い。剣の刃の通りを一振りごとに深くしていった。骨に当たる程で無くとも、血漿が散るようになった。
執明の放っている弾は、散らばるように牛怪の胴を襲っている。
──仕留め切ろうとしていない
陵光は察した。急所へと狙いを定めていない。ただ、玩弄したい訳では無かろうとも思った。
跳んだ。そのまま弾の飛んでくる方へと着地した。
牛怪は陵光を追って、身を横に回している。
その隙を衝いた。
滑るように牛怪の股の間へ、陵光は身を潜らせる。尾に向けて抜けるまでに、四足の内から腱を斬り付けた。
尻に抜け構えを取り直した頃には、牛怪の体が地に崩れ落ちていた。
──これで良いのだろう
陵光は念じていた。
執明は準備が整うまで、下手に止めを刺さなかったのだ。だから陵光が決定打を催せる状況に持ち込むまで、気を逸らかす事に終始したのだろう。
身を低くしたまま、陵光は執明を待った。弾の飛んできていた一点を睹詰めている。
風が飂、と言った。
撃発。一つの弾が牛怪に向けて飛ぶ。
額を捉えた。それでも尚、牛怪は首を垂れなかった。
二発、三発。射ち込んだ箇所へ連なるように飛んでくる。その度に牛怪は精気を失っていった。
そして五発目に、遂に牛怪は殪れた。
あんがい長かった、と陵光は思った。
辺りが静かになってから、繫みの中より執明の姿が現れた。牛怪を仕留めた時よりも、位置は変わっていた。
「助かりました」
「素直ね?」
礼を伝えれば、またこうなる。やはり陵光にとって、やり辛い相手に変わりない。
「それよりも──」
執明の目が、少しだけ険しくなった気がした。
「子どもが居たのよ。陵光?」
「留まっていましたか」
「何故」
「怪に攫われ、ここまで。故に」
執明はふうん、という音交じりの鼻息を吹いている。そして、顔を繫みの中へと向けていた。その辺りに先の幼子が隠れているのかもしれない。
「陵光。ひとつ言っておくけど」
「如何様にも」
「情は何も産まないわよ? 前にも言ったでしょ?」
「情では無く、志であります」
「辺りを鳥瞰なさい。幼子独りの為に、ここまでやる必要はあった?」
執明はわざとらしく、首を左右に振っている。
省みろ、ということである。死に掛けているではないかと、ややも糾弾も在ろう。
──賤奴め
陵光の胸裡に、些細と罵詈が生じた。
吞み込んだ。礼節は必である。汚辱の言に口舌を使えば、心身に塗れるのだ。
言わぬ、と執明を眄視した。この時ばかりは眉間に皺が走っていると気が付いていた。
執明もまた、陵光の態度を窺っているらしい。いつものような糸を引く眼が、更に細くなっていた。
陵光は腕を組み、執明へと口だけ動かした。
「それで」
「──言いなさい?」
「幼子はどうなりましたか」
陵光はそう言うことで昂奮を抑えた。睥睨したままである。
執明も、口角を少し上げた。
「額に傷があるだけ。ちゃんと動ける」
「ならば、それが一番善い。山を下りましょう」
「そうしましょうか。監兵ちゃん?」
執明の声に、監兵は鋭く反応したらしい。衣の擦れる音が微かに聞こえた。
「なに! お姉ちゃん!」
「還るわよ」
「うん!」
返事をした監兵が、小走りで寄ってくる。
陵光の傍に立つなり、下から顔窺いをして、ほんの僅かに黙っていた。
「兄々?」
「監兵、行くぞ。泰山まではまだ遠い」
「うん。さっきの子、元気だよ」
陵光が下を向くと、監兵の眉が八の字を描いていた。
やっと心気が抜けた様な思いが、陵光にはする。
己が憤りを露わにし過ぎたのだろうし、監兵に気遣いをさせたのだとすれば冷静にならざるを得なかった。
弟に苦心させる師の未熟さとは、一体何なのか。しかし心気を抜いたのは、その義理だけでは無い気もする。
陵光は監兵の肩元を、後ろから軽く敲いた。それを合図に、監兵は歩き始める。
──つくづく此奴は
そう思った時には、肚の煮える様な感じは消え失せていた。
丁淩が待っている。车の躯体に凭れて、いわゆる香烟という紙筒を咥えて煙を棚引かせていた。
そこそこ待ったはずであろう。それなのに车の内で待たない辺り、前々から陵光が感じていた事だが矢鱈に律儀な男である。
「回来了」
「嗯、都《dōu》弄完了?」
「都办完了。走吧」
執明が振り向き、合図を送っていた。陵光は先に監兵を行かせた。
先の幼子は、街に戻った折に女へと引き渡した。再開の時に抱き合っていたから、たぶん親子だったのかもしれない。天ではあまり見ない光景だったとも思う。
その時、監兵は陵光の横に連れ添ったが、執明は山から怪が追って来ないか確かめるからと蹤いて来なかった。怪の気配は皆無だったのだから、本当はそのような事はしなくて良かった。
それでも留まったのは、執明の将帥としての部分が慣れ出たからだろう、と陵光は理解していた。
もう晡の色である。
三柱が车に乗り込んだのを睹てから、丁淩は馭の席に座った。
仕組みが起こり、低い音が鳴り始める。
泰山まではあと、千七百里はあるという。




