鬼之章「危に東を指すを画し、泰山下に窿を望む」 二話
加油站から出て、また東行である。まだ道半ばと謂うのにも憚られるほど、進んだ路程は短い。
陵光は再び動き始める前に、執明を介して丁淩へと距離を問うていた。
「──千六百」
「单位?」
「公里」
丁淩の体調はかなり戻ってきている。そのことは、この会話の声だけでもよく判った。陵光も青海湖から比べて周りの気が濃くなってきたとは感じていた。
「何と」
「泰山まででしょ?」
「その通りです」
発つ間際、執明は
──泰山を目指しましょう
ということを宣っている。理由は陵光も、訊かずとも解していることであった。
孟章が泰山付近に居るかもしれないという風聞を、確かめるのである。
「千六百公里」
「千六百里──」
「違う。倍に半ばを加えなさい、そうすれば大体合うから」
陵光は執明の助言に従って指を動かし、算子の如く数えた。
一は二となり、六は一を繰り上げて二となった。そこへ半ばの八を加えて、位ごとに合わせていく。
「四千里──」
相当遠い。陵光は指を折り曲げたまま、己の眉をなぞる様に掻いた。胸を萎ますように、鼻から息を吐きもしている。
天に居た頃のように飛べるのならば、さほど問題にはならない。だが车の走りと己らの置かれている状況を考えると、鈍行も鈍行となるのだ。耐えられるかどうかというのは、陵光らの実力云々というよりも、天命に懸かっている気さえする。
「順路は」
陵光は執明へ、言葉を返していた。
執明はまたも丁淩と話し、答えを得ている。
「北を通る。西安とか郑州とかは通らない」
「その二つは──」
「都。市街としては、ちょっと大げさな処」
目立たぬなら安堵できそうだ、と陵光は思いかけた。しかし考えてみれば、整えられた地を列挙すればそのまま路になる訳では無いらしい。こういうのは動くのに難儀する。
とはいえ平気だ、という貌を執明や丁淩にはされている。
「案内が出るなら、ちゃんと路が在る」
執明が根拠として、そのような理解を付け加えていた。
それから、三日目である。
監兵は退屈しつくしていたが、他の二柱と一人は常に気を張っているような有様であった。不自由と謂われれば、否定なぞできない。
この地には大路が設けられ、その上なら刻は掛かれど目処の立つ行路になっただろうが、生憎それはできない。
何故なのか。陵光が執明に訊けば、それもやはり车の前後に有る刻印が原因であるという。
人が居なくても記録をしていく仕組みがある。大路の上には頻繁に置かれているらしい。だから小路を辿らざるを得ない。
それでもなんとか三日で、判る限りには二千二百里は進んでいるのだという。
この地の名は、吕梁と云うらしい。
丁淩も力を尽くしているとはいえ、少し休ませろと言ってきた。陵光から視ても、腰を抑えたり揺らして呻く事が増えていると気付いていた。
執明は
「休む暇、あるかしら?」
などと騙し賺して来ようとしたが、陵光は毅然として
「兵で無い者を、そのように扱いますな」
と言い、休ませることを勧めた。
久々の外である。吕梁に入るまでは土石ばかりの山も多く、地の襞が立っていたが、ここでは緑が断然と繁るようになっていた。空気も砂の巻き上がるようなものではなく、湿りが増えている。肌に付くものが東に向かうに連れ、少し増えているのだ。
丁淩が存分に欠伸と背伸びをしている。監兵も丁淩の隣で、同じようにしていた。
その姿を見ながら、陵光も车の内を想って
──このような狭い空間に三日か
などと振り返っていた。
文吏として何日となく書簡を披くことは多いが、ここまで狭い空間で連続して、しかも何もしないというのも珍しい。天から墜ちてからは剣を振るってばかりで、その割には多忙で無いからか気の張りが薄れている。
言語でも覚えるか、とも考えた。そうすれば暇を潰せるし、筆も手繰れるだろう。文字なら多少は解せても、口語は執明に頼っている。その辺りが陵光の学士的な部分に於いて、かなりもどかしくもあった。
今はまだ、そこまで深刻になるべきでも無いだろうか。
吕梁には濁りがちの川が流れている。陵光からすると、そのようなものを瞰るよりかはと緑を目にしたくなった。
久々に気がだれていた。せっかく長く休みそうなら、緑を眺めに離れても不埒ではあるまい。
丁淩の横には監兵が居て、執明に付き纏われたい気分でも無い。山への距離も近い。
ならばと陵光は、監兵らに一言告げてから山の斜面を確かめに向かった。
市街のすぐ背後に山は聳えている。
陵光は建屋の横に立ち、暫く稜線へ向かって目を仰いでいた。
──蒼だな
そう思うに留めた。何しろ、少し考えない為に来たのだ。
じき、風が大きく吹いた。大きいのであって、疾くも強くも無い風であった。だから多くの枝葉が揺れても、山全体に騒めく程度の音であった。
監兵らしく感激はしないし、執明ばかりの詩情が湧くことも無い。その中でも陵光が憶えた事と謂えば、孟章の仁懐であった。
生まれたばかりの頃から知っている仲である。天でも永く離れることはまま有ったが、疎遠では無かった。孟章という存在に郷愁すら感ずるのは、今が初めてであろう。
「稚い」
陵光は己を叱呵した。このような事を想うのは天官の羞恥である。
もうそろそろ戻るのが好かろうと、陵光は踵を返していた。
目を下した陵光の耳に、誰かの声が届いてくる。
少し首を動かした。喚いているのだとは判った。
ならば、行かぬ訳にもいくまい。陵光は儔が居る事を措いておき、声のする方角へと駆け出していた。
街を抜け、人を避け、辿り着いた先には女と、それを支える男とが居た。両者ともが蹲る様である。
陵光は膝を曲げて目線を落とし、二人に話しかけた。
「如何した」
二人は陵光の顔を初めて窺った。その瞬間、男の方が呀、と声を放っている。たぶん紅色の髪が目に入ったのだ。陵光は察していた。
「どうされたか、お話しください」
陵光は特に気にしなかった。どうせすぐ離れるのだから、そのぶん己の矜持は忘れずに発揮しようと考えていた。通じなくても良い。
女は信じたのか、彼方を指している。
男は逆に、陵光が不審なのであろう。気を確りとさせんと女に話しかけているが、女の指は動かなかった。
「そうですか」
陵光は穏やかな貌を向けて、すぐに立ち上がった。
やり取りの内に、陵光は女の身形を何となく頭に入れていた。齢はそこそこ、あまり着飾らず衣も乱れていない。その割に取り乱し方が烈しいから、珍物を掠められたのだろうと推し量っていた。
気の流れを肌で感じ取る。
──これは怪か
こんな処にも出ているのかと呆れを含んだ後、陵光は女と男をまた一瞥してから、怪の気の漂う辺りを探りに走った。
先に眺めていた山の、斜面の奥である。入り込むと怪の気が濃くなった。
陵光は左右を顧視しつつ、単独であるからと一層に慎重を期している。
監兵や執明を呼ぶべきだったかもしれない。だが女の取り乱し様なら、まずは独りだけでも来るべきだった。あの調子ならきっと、多少は騒ぎになってもいるはずなのだ。
陵光は気の流れに沿って藪を漕いだ。左手には剣。誤って火を放ちたくないと、鋭く振って邪魔な草を薙ぎ払った。
光が照った。少し土地が開けた。
ここだけ木が生えていない。たぶん誰かが意図してやったのだ。しかし都合よく使っていたのは、在地の者では無かった。
怪が幾らか。獣の形が群れている。
何かを取り囲んでいるが、その中央が陵光の追っていたものではないか。
「誡!」
陵光は強く放った。数匹が目を向けてきている。姿形は様々であった。
どれが、まず来るか。陵光は見定めている。
反応が早かったのは、禺の様な体の怪と、尾で身を空に浮かせている麋のような怪である。どちらともが、わざとなのか足取りを游揺させている。
襲おうとしてきた。用心するまでも無く、陵光は来たなりに怪の四肢を刎ね飛ばしていた。




