鬼之章「危に東を指すを画し、泰山下に窿を望む」 一話
橋の上で兵と対峙し山へと去ってから、一刻ほどが過ぎた。
剣はもう不要であると、陵光は解いている。肩に掛かっている監兵の手にも、鉤爪の形は無い。
脱してきた西宁は、山豁の市街である。故に四方へと路が伸びてはいるが、それのみである。陵光らの目的は東であったから、しぜん東へ往く路を辿るべきであった。
ずっとなぞってきた湟水の両岸に路はある。大なる路と小なる路。
遯竄の為なら脇に逸れるものであろう。そのように考えた陵光は、監兵を背負ったままで小路へと目を遣り続けていた。
丁淩と執明が乗っている车は黒く巨きな躯体を持ち、四輪で荷台が備わっている。辺りに走る车を見る限りは発見もしやすいはずだった。
また、半刻である。陵光と監兵は路上で、次々に流れてくる车を睹視していた。
──もしかしたら追い越したか
という不安が、頭に浮かび始めたからである。
思えば、空を踏むと疾くなるのだ。そのことを忘れて釈迦力に進み過ぎたのではないか。
陵光は背から降りていた監兵にも
「乗っていた车の臭いは憶えているか」
と、直截ならずとも探すように伝えていた。監兵はそれからずっと呻っている。
「判らないか」
「わからないわけじゃ、ないけどねぇ」
燻煙の臭いが強く、尚且つ臭いの質が独特で覆われてしまうのだという。
「お姉ちゃんは、お花みたいな匂いなの」
「確かに、それでは嗅ぎ辛いか──」
苦労して儔を得たと思えば、また離別する。陵光にとって残念な事である。これも多分は、己の不備ではないかとも考えていた。
「兄々」
「なんだ」
「しわ」
監兵が陵光の額を指してきた。
その手を、陵光は右手で上から抑えた。監兵はすぐに不服そうな貌をした。
──また駄々を捏ねまいか
陵光が心配になったのは、その側面であった。
また、刻が過ぎる。
少しだけ日が翳ってきたようであった。空の色が変容して西日の反対側、晴れている所からは星が散らばり始めた。
陵光は先に進むべきだろうと思索し始めていた。むしろ無理に车を待ち、進もうとするよりは目立たないかもしれない。
監兵、と声を放ちかけた瞬間であった。
「あ──」
後ろを顧みていた監兵の貌が、少し朗らかになった。
陵光も目の向きを合わせ、て西側を窺った。
探していた丁淩の车である。
黒く巨きな躯体、低い音。暗がりにかかって輪郭はぼやけていたが、車輪の向きは確かに陵光らへ寄っていると認められもした。
「遅れたわね」
執明が窓から身を乗り出して、车が横付けされるのと同じに声を掛けてくる。
「真です。所以は」
「乗って」
執明は有無を言わせなかった。戸を開らき、中へ導こうとしている。
「解りました」
陵光はすぐに、執明の意図を吞み込んだ。監兵は荷台へと行きかけていたが、肘を掴んだ陵光が车の中に引き込んだ。
乗るなり、陵光は初めに丁淩を気にした。
「柴油?」
丁淩は反応して後ろを向く。目容には
──少し厳しい
と表れていた。鼻を振り、车の前方に描かれた複数の円弧に意を向けさせようとしている。
陵光の理解に合わせるのなら、柴油を標する針は半ばを割っていた。丁淩が曇った貌をしているのは、同感でしかない。
「陵光」
執明が気を惹けと仕向けてくる。
「はい、遅れた理由ですか」
「嫌な言い方──」
「いま気にする所ですか。訊かせて頂きたく」
やり取りをしている内に车は走り出し、路の形に揺れていた。
「遅れた理由ね。私がそうしたのよ」
「私と監兵が気を惹いている間に、速やかには逃げられませんでしたか」
「そうなんだけど──だいぶ騒いでたから、あまり出られなかったの」
陵光は頤を指で触れた。考えている内に監兵が執明の隣に移りたがったので、好きにしろと隙間を開けた。
「隙を窺った、ということですか」
陵光が次に執明を睇た時には、監兵の頭が執明の手の内に収まっている。
執明は監兵を愛でながら
「正解」
と、応えた。
「もっと言うと、ちょっと細い路を通った方が良いわよ、って。私が案内したの」
「それで、刻が嵩みましたか」
「必要だもの」
執明は待たせた、という気分を出していない。
ともすれば己が急き過ぎていただけなのか。陵光は、そう思いもした。
「しかし、丁淩殿に確かめましたが」
陵光は迷妄から実際に戻すため、執明への言葉を選んだ。
「なに?」
「车の柴油が少なくなってきているようです。どうされるつもりか」
「ああ。そのこと」
「车が無ければ困窮しませんか」
「私たちは平気よ?」
執明は不敵さを見せている。
──何が平気か
陵光は怒りこそしないが、心奥より呆れた。
「丁淩殿への遠慮は」
「ああ」
執明は思い出したように頤を上げている。
「忘れてた」
「で、あれば」
「まさか? 加油站は目指す」
鼻から僅かに抜ける息。下がる目尻と下に弧した口。
また試されたかと、陵光は奥歯を噛んだ。
「何処で?」
陵光は肚に溜まるものを覚えながらも、声を口に含ませた。
「次の街は無理。一つ越えただけでも危ない。なら、二つ先でしょうね」
「どれ位になりますか」
「境はそこ、って話。そう考えて?」
また煙に撒かれるような仕舞いになって、陵光らは口を閉じた。
それからは夜行となった。
车はなんとか路を進んでいる。強い光が常に前を照らした。
陵光らが合流したのは平安という街の袂で、そこから執明の言う通りに海东という街を越え、暫く山間の湟水沿いを走り続けた。
车の速さで二刻ばかり。陵光が目算した限りなら、少なくとも二百里ばかりは進んだようであった。
それだけの路程を経て、やっと车を停める場所を見つけた。この地の加油站である。
間中ずっと執明の隣で眠っていた監兵は目を醒まし、陵光に連れ添って背伸びしている。
「兄々は動けないの、いやじゃないの?」
気が入りきらぬまま、監兵は陵光へ問うている。
陵光は己の肩を抑えながら、周りへの検めを止めていなかった。
「嫌では無い」
「なんで」
監兵の疑問の本は、監兵自身の活発さによるものであろう。そして彼我の相違という発想が監兵に無いからなのだとも、陵光は心得ていた。
「これが常だからだ」
「──そっか」
少し監兵の語気が落ちた気もしたが、疲れているからなのだと慮った。川沿いらしく風が吹いているから、気を晴らすには丁度好いはずである。
「陵光。監兵ちゃん」
離れた処から執明が歩いてくる。
「丁淩殿は」
「香烟を吸いに行ってるわ」
「香烟──」
「彼、時たま紙の筒を吹かしてるでしょ? あれ」
ああ、あれか。そのように陵光は相槌を打ってから、執明の話したがっているだろう本題へ戻ろうとした。
「それで、執明殿」
「そうね。実は车をどうしようかって」
「今、柴油を吞ませているではありませんか」
「そうだけど」
執明は陵光の横で、乗ってきた车の尻を指した。
「──刻印ですか」
陵光は一瞥するのみでも、すぐに気が付いた。
「そう。あれが邪魔」
「外すか隠すのは」
「そんなこと、逆に目立つわよ」
無言が覆った。微風が吹いた。
監兵も変に燥ぐような雰囲気で無いと察知したか、目を丸くして陵光と執明を交互に睹ている。
「棄てるのは、賛同しかねます」
「でしょうね?」
「執明殿は、そう思われませんか。冷酷は何も産みませんぞ」
「峻厳も情も、何も産まないわよ?」
陵光は押し黙った。己の眉間の皺は気が付いた事が無いが、鼻に皺が刻まれれば分かる。それだけ苛付いたのだろうと、自ずから判じもした。
「それでは、如何致しましょうか」
陵光が肚の気を沈めながら放った一言である。
「改竄しても姑息にしかならない。早く抜けるしかないわねぇ」
執明は疲弊しきったように放言していた。
「それで良いのですか」
「ええ。でもこの先、都が続くから」
言い切った執明の横顔に向かって、陵光は心ならずも
──結局は、その程度だったのか
などと、見えていた不遜な態度に思った。




