左右を瞰る。兵は各々に、止まっている车を監察しているようであった。目の数は少ないが丁寧である、と陵光には思えた。
ただ、確実に捕えようという気配とも違う。兵共の気が完全には締まっていない。
陵光は丁淩を窺った。馭する手が、かなり筋張っている。然も有りなんと謂うべきだった。
吉凶は丁淩の馭の腕にも掛かっているだろうし、三柱が目立たぬ事にも掛かっている。少なくとも人々が陵光らに敵してしまえば、前よりもずっと動き難くなるのだ。天で怪が生じた時と同じような事を、陵光らを怪の側として施されかねない。
丁淩は手机も手繰っている。
地図を確かめているのだろうと陵光は察した。ここに来るまでには山が多かった。そういう地は得てして路も少ない。その不安が丁淩の仕草に現れたのだ。
「執明殿」
「何」
「監兵は後ろで、すぐに出られないように」
陵光が言った途端、監兵が身を乗り出して猜疑をぶつけてきた。
「なんで!?」
その口を、執明が空いた手で覆った。
「ね?」
優しく執明が言うと、監兵は息を緩ませていた。次に陵光へ言葉を向けたのは、その執明であった。
「出せない?」
「厳しいです」
「進路は」
「在っても塞ぐに易い。ここは山間です」
陵光から言葉を引き出した執明は、やり取りの中で納得したらしい。そして陵光の
──これは間違いなく競り合いになる
という予感は、すぐに伝わったらしかった。どこか呆れたような息が執明から聞こえた事が証左であろうと、陵光は思っている。
「もうひとつ」
陵光はまた、会話の突端を置いた。
「丁淩に伝えるのね」
「はい」
陵光にとって、執明は扱い辛い相手である。だが必要な時に、これだけ短い言葉でも達しあえるというのは、むしろ何よりも楽な相手であった。
現地の言葉で簡単に、執明が丁淩へ説いている。丁淩は前方へと眸を定めながらも、耳だけ執明の声へ向けていた。
やり取りを終え、丁淩は何度か頷いた。
「──只能这样了」
腰元の杆を、丁淩は引いている。決心は彼の中でも固まり始めているらしい。
「私は出ます」
陵光は车の戸を開けつつ言った。執明の手が肩に触れる。陵光にとって冷たすぎる手である。
「私じゃ無い?」
「貴女には間合いがある」
「監兵は?」
「窮まってからで宜しい」
「陵光である必要は」
「動け、瞰れます。間合いも不過分無い」
「なら行きなさい。でも監兵を出すとなったら、どうしましょう?」
執明は試しているのだ。盗むような目が肚立たしいが、同時に意を決めてもいるのだ。それを感じ取った陵光は降り際に
「そうなれば、好きにさせよ」
と、己の考えたままに伝えた。
路面、建屋。外縁には禿げた山肌が目立つ。车から降りた陵光は、辺りをそのように見渡した。
陵光の紅色の髪が映えぬ訳が無い。更に云えば、緊張した場で目立つ総身を現したのも不可解であろう。
陵光の身に、兵らの目が確と向いた。
「站住!」
駆け寄りながら言ってくる者が居る。兵の一人であった。
陵光はわざと静やかな貌を向け、兵に応対した。
「何でしょう」
兵は手を差し出した。たぶん札の類、この地であれば身份证を出せと言っているのだろう。手に何度も力を籠める辺り、かなり急かしに来ている。
陵光は首を横に振り、無いと示した。兵は猶更に訝しんだ。
丁淩の馭する车が、隙を突いて走り始める。周りは気が付いていた。だが反応は遅れていた。
目の前の兵が声を上げかけている。言葉として出きる前に陵光は腕を取り、側頭を腕で叩きつけた。
兵が飛ぶ。
組み伏せようとしに来た者を、逆に陵光が背負い投げた。
叫声、步枪が構えられていると察た陵光は、空を踏みつつ左手に剣を顕し先端を斬り落とした。
兵の貌。恐懼は無いが、動顛は有る。同じ事が起こって来なかったのだろう。
──上だな
陵光はすぐに跳んで、立ち並んでいる屋宇へと乗った。
戦い慣れているほど、上に敵が居るのを嫌悪する。陵光は下を窺い、近くの兵共の目が一斉に仰がれていた。
これで丁淩も、多少は馭し易くなる。
陵光は跳びつつ、儔の乗る车の動きにも注意しながら兵を襲った。
上から瞰る限りは、執明も车の中から左右へ応戦しているらしい。監兵は出していない。
──耐えろよ監兵
そのように陵光は念じている。
车の向かう方角に兵が居れば、陵光は排撃した。加減はする。その為に陵光は出た。
兵に剣を当てる時には刃を立てずにした。剣の腹を当て、叩く。それでも熱で兵の皮膚は少々赤くなっていた。猶も勇敢なままであった兵には、服の上から肌をなぞる様に薄い創を付けた。
もう一度、屋宇の上に立つ。兵は车を出しているのか。
まだ、そこまででは無い。儔の向かう先に兵は寡ない。もう留まらぬ方が良いかもしれない。
陵光は向かおうとした。数歩して、足の裏を地に突張った。
──目を散らす
陵光はまた降り、兵の目を惹きつつ幾らかの気を失わせた。
兵の胆気が衰えてきている。
儔も少し離れたろうと推し量った陵光は、跳び上がり、空を踏んで、车が向かったであろう東方へ向けて瞬く間に去った。
湟源の東。四、五里である。
儔の乗る车を陵光は見付け、その天板へと着地した。その揺れと音で知られたのか、横の窓から執明が顔を出してきている。
「陵光、どう」
窓枠に腰掛け、風に髪を顔へと纏わせながら執明が尋ねてくる。
陵光は片膝を立て、目を合わせた。
「追う者は少ないでしょう、ですが──」
「判った」
「承知なされましたか」
「先は判らない、でしょ」
陵光は一度、首を縦に振った。
「執明殿はまだ警められますか」
「当然。この中は忙しいわね」
諧謔を執明は交えてくる。
陵光が笑うことはない。己は執明の奔放さすら混ぜて、常に取り仕切っていたと自負している。そういう心が顔を強張らせた。
「とにかく。このまま」
陵光は天板に暫く、留まると伝えた。
そのまま车は路を走っていた。
そこから気の休み処は無い。湟源から六十里、西宁という街の西端に入った。
前に通った事もある。憶えているのは、湟源よりも際立って大きい市街であるという観察だった。詰まるところ湟源よりも殆うい、などという憶測も立つ。
陵光は目立たぬよう、车の天板から屋宇の陰へと身を遣った。
湟源の時と同じように儔を守り、全体を俯瞰するためである。ついさっきの例に大逸れて行為するなど、全く必要無い。
陵光は離れて车を追いつつ、所々で人の動きを視た。そして考えた。
──ここから先、大きな市街は遠い
つまり包囲は一旦、ここまでであろうという推測がある。
仰々しい车が有るか。兵など警邏する者が居ないか。陵光は具に確かめた。
居るは居る。だが、どうにも疎らである。もしかしたら市街が大きい故に、そこまで各所に数を割けないのか。
ならば足を速めても良い。陵光が、息を吐いた時である。
「兄々、どう?」
突然の声に陵光は、咄嗟と備えていた剣の刃を当てた。緊張もあった。姿貌を全て知る前に、言葉遣いで思い出した。
「監兵。何故居る」
车に留まれ、留まらせよと言ったはずではないか。伝達の不全を催したのだと、陵光は少しばかり慍然とした。
監兵も、陵光の表情には敏い。
「ちがうの兄々。お姉ちゃんが兄々と行きなって──」
言い訳がましくもある。陵光は発露しかけた感情を抑え込んで、すこし文脈を査べた。
「執明殿は、他に言っていたか」
「兄々が一緒なら平気、って」
執明が意図を以て、監兵を放ったのは真実らしい。ふむ、と納得を含まない相槌を打って、執明の考えを推し量った。そして
──監兵の轡は私が握れ、ということか
という解釈で、なんとか吞み込んだ。
「解った。ならば、これから一つ守れ」
「うん」
「私から、一丈を超えて離れるな」
陵光の思い付いた、監兵を羈縻する為の発案である。
監兵は晴れた声で返事をした。