柳之章「三柱を疑わ可から使むに、人人出師す」 三話
三柱と一人は、西海镇から车を走らせた。路面が悪かったのか、時に車輪が空回りしそうな勢いであった。
執明が车の天板に構え、監兵は後部の椅子から多方を窺っている。陵光はと謂えば、未だ具合の悪そうな丁淩に寄り添って、馭に過失が無いよう見張っていた。
十里ばかりを走った。
车の側面の窓が二度敲かれた音がする。陵光は丁淩から目が離し辛い。監兵に目を遣って
「窓」
と、短く伝えた。
「どうすんの」
監兵は车の窓をどうすれば良いのか、解らなかったらしい。
「──監兵」
怠さの掛かった声が出された。
陵光の横、丁淩である。馭の為の輪を握り、前から目を離さないままに何かを伝えようとしている。
「按那个按钮」
そう言いながら頤を小さく振っている。陵光は车の造りを知らないながらも、丁淩が示さんとしているものを忙しく目で探した。
窓の周りに何かないかと思って視れば、少し下の突端に気付いた。他に似た物が無いかと、対面の窓の下も同様に視る。
在る。ならば、これではないか。
「監兵、そこを押せ」
陵光は突端を指した。
監兵は指先を目で辿って、理解したらしい。乱暴に掌を押し付けた。
「すこししか開かないよ! 兄々!」
「だったら押さえてみろ」
陵光の言葉に従い、監兵は突端を押さえ続けた。
窓が下がり、外の風が入ってくる。下がりきると、監兵は身を外に乗り出した。
「お姉ちゃん!」
風の音で判りにくいが、微かに監兵が執明へ呼び掛けているのが聞こえる。執明の声は搔き消されて、陵光には知れなかった。
陵光は監兵の相槌と仕草だけで様子を伺い、身を引っ込んできた後にようやく訊いた。
「何と言っていた」
「兵はいないけど、まだ上にいるって」
陵光はちらと後ろを瞥た。確かに、兵らの乗っていたような仰々しい车が追ってくる姿は無い。平原の中、道なりに来ているのだから見失われるはずも無かった。
警戒は執明に任せようと決めて、陵光は頭を廻らせた。追わない理由は何か。丁淩の様子も看つつである。
陵光らよりも速く伝達ができるのか。それとも追うまでの必要が無いと考えたのか。
丁淩は調子を崩しているとはいえ、相当速く车を走らせている。陵光や監兵、執明は兵らに害を為した。今の车より優れた伝達が有るかは解らないし、追う理由は甚だしい程である。そもそも、その考え方自体も間違っているのか。
陵光は想像を断って、再び丁淩の看護に心を配った。これだけの大きな躯体を優れない体と状況で馭そうというのは、立派なのだろうと思った。
「靠……」
丁淩はそう言いながら、舌打ちを嚙ましている。
始め、陵光は兵に狙われた事を思い出し、気にしたのだと思った。しかし丁淩の目が細かく左右しているのを察して、何か他の思索があると考えたのである。
陵光は異変を求めようと、丁淩の目を追った。
何度かの往復を繰り返すうち、円弧した線と針が瞥えた。円弧の半ば辺りに、針の先が当たっている。細かく動くものでは無い。ただ気にするのには十分な物なのだとは、なんとなく知れる。
速さは違う。丁淩が足元の板を踏む度に上下している針も違う。数字や文字すら充たらない。そこまで考えて、ふと思い浮かんだ。
──柴油か
车にとっての秣に近い。これが無ければ走れないのだ。丁淩は西に来るまでに、かなり気にして積んでいたのを憶えていた。
半ばの辺りということは、実はかなり減ってはいまいか。车でなくても、半ばは消耗の窮まり始めだとは同じようなものである。そこまで考えて、丁淩の舌打ちの理由が判った。
陵光は監兵に向いた。
「監兵、良いか」
「うん」
「いざという時に、丁淩殿を運べるか」
「──たぶん」
返事が、監兵にしては弱かった。陵光からすれば、余りにらしくない声である。
先の事を病んでいるのか。陵光は今までの監兵の行為を並べてみて、そうだろうとした。
「先に兵を突き飛ばしたな」
「そのせいでょ?」
「何があった」
「西って言われて。はい、って」
「それで」
「西海镇って」
「そうだろう。それでか」
「ううん。哈尔盖河って言われたときに、はいって言って、まずいって思った」
「掴まれかけて、突き飛ばしたのだな?」
「そう、そのあと──」
「もう良い。お前は執明殿に言われた通りに、簡単に返事をしただけだろう」
「でも」
「でも、ではない。 私に任されて行き、執明殿の言った通りに応えたのだ。それ以後は責めるべき事では無い、解るか」
「そうだけど」
「解ったのか!」
「承!」
「ならば先を考えろ」
陵光にも掛けるべき言葉が少なかったが、意気を取り戻させる為にはこれだけ断言するべきだった。言った途端に、監兵の貌が少し血色立った。
好し、と陵光は目を前に戻す。己の気も、少し引き締めなおした。
西海镇からは、もう百五十里である。
湟水の出る辺り、湟源という地である。辿り着く前に執明は、怪しまれないように窓から身を潜らせていた。
ここでならば柴油も有ろう、などと予測もしている。しかし
「ねえ。ここ、すぐに離れるべきじゃない?」
と、執明が宣うような有り様であった。
西海镇ほどでは無いが、人の兵が幾人か歩いているのが見えてる。车同士が少し詰まっているのも気になった。
「関門のようですな」
陵光は譬えとして口にした。眼前の風情が、天の関門にて検閲する様に似通っている。さもすれば、正しくそうでないかという勘もはたらいていた。
もしそうであれば、まさか羽書(急報の書)の類が既に届いているのか。
「手机なら、知ってるでしょう?」
執明が見え透いたかのように問い掛けてくる。
陵光は話を聞こうと、何も言わず目を合わせた。
「これで伝わっちゃうのよ。そういうこと」
執明の手に手机が揺らされている。それでは見えているよりも危険ではないかと、陵光は言いかけた。
「で、身份证。あれも、これに必要なの。つまり──」
言うや否や、執明は窓を開けて手机を投げ捨てた。
陵光は瞠目した。
「何を──」
「私、目立っちゃってるもの」
陵光は丁淩を流し目に睇た。彼も袴から手机を取り出し、大きく息を吐いている。
「能绕过去吗?」
「不清楚」
執明から話し掛け、丁淩が答えている。執明は一旦、陵光や監兵に顔を向けた。
「だいじょうぶ?」
たぶん荒事になっても切り抜けられるか、という話だろう。陵光は無論だと思っている。監兵の貌を視ても、先までの不安は感じられなかった。
「ならば丁淩殿も、安堵召されよと」
陵光は伝えた。監兵も少し腰を上げて、動けるようにしている。
執明はそれらを確認してから、再び丁淩へと向き直った。
「出了事、有我们」
ああそうか、という表情のまま丁淩は足元を操った。ゆっくりと進み、止まっていた他の车の脇から出て、いま居た路から外れていく。
追う者は居ないか、気を配るのは陵光らの役割である。
陵光は右を、執明が左を、そして監兵は後ろを窺っていた。
執明は瞰ている側の窓を、半ば開けている。そこから外の音が抜けてきていた。
「開けぬべきでは」
小さく告げた陵光には、無防備にならないかという心配が有る。
執明は涼しい顔を崩さなかった。そのまま手に、步枪を模した武具を顕している。
陵光はすぐに、窓を開いている意図を理解した。有事が起きればすぐ、対処しようとしているのだ。
剣を出しておこうか。陵光も迷ったが、剝き身で出せば车の内を傷付けるではないか。監兵の鉤爪でも同じである。執明だからできるのだ。
なら、と少し堪えて、静かなままであれと念じていた。流石に今度騒がれれば、加減ができるかも判らない。少し監兵の姿勢が目に入って
──そういえば毛髪でも目立つ
という事すら、頭の中に浮かんだ。
丁淩はその最中でも、ずっと顔を顰めながら车を馭している。




