宿舎の周りが一拍を置いて騒然とした。陵光と執明は声が上がりきる前に、なんとか監兵近くの一人や二人を制していた。
しかし辺りを見回せば、監兵が突き飛ばした兵は離れた路傍に体を打ち付けている。音に気付いた数多の兵が、一挙に緊張を走らせていた。
──監兵だった
陵光は、もう少し好い仕方が有ったかもしれないと心の隅で思っている。
「とにかく、彼を連れてきて」
共に出た執明が、陵光の視界の外で言った。
「監兵は」
「連れて行って」
「承知した」
陵光はややも、本当に執明だけで外を抑えられるのかと考えた。だが監兵の轡を握る為に、陵光が居るべきという事ではないかと思考を往復した。
陵光は監兵が逆へ行きそうになったのを、手を取って宿舎の中へ入っていった。
内も騒がしい。戸口から傍だってすぐに、兵が数人で陵光へと駆けてきている。
どうするべきか。寸時考えてから、陵光は剣を顕さず、徒手のみで兵に対すと決めた。
執明が使っていた步枪らしき武具を躱し、手脚を使って撃っていく。人の動きは陵光でも簡単に制せるものである。だから剣を使えば、加減が難しかった。
「監兵に言っておく」
「なに?」
「武具は出すな。そして徒手でも、撫でる程度にしろ」
「うむ」
陵光に加減が難しいということは、つまり監兵にはもっと著しいはずであった。
陵光は監兵を連れて、宿舎中の廊を真っ直ぐ走った。監兵が離れかければ、無理にでも近くに寄せて自由を効かせない様に気を遣いもした。その態度を保ったままで、来る兵の殆どを陵光が負っている。
陵光の後ろから、壁を衝いた音がした。
「監兵か。強すぎるぞ」
「兄々の言ったとおりにしたもん。撫でてる!」
監兵の足元には、兵が力無く臥せっていた。
──まさか死んでいないだろうな
とは、陵光が恐れた所であったが、目の色がまだ良いのを察て、そのままにした。
階を登っていき、丁淩の部屋の前にまで着いた。白く装飾の有る戸が閉まっている。
陵光は手に剣を顕した。
「いいの? 出して」
声を聴くに、監兵の口は曲がっているらしい。
「考えてのことだ」
陵光は構わず、剣を交差に振った。戸に灼けた断ち跡ができ、中央を蹴ると砕けたように四散した。
開いてから見えたのは、椅子に座る丁淩と、緑の服の兵が二人見張っている様子である。
兵の肩元には赤い五稜。高級という訳では無いだろうが、什長くらいではあるのだろう。表情を視れば、少なくとも扱き使われるだけの側には見えなかった。
兵らは目だけで驚愕している。だが体だけは、步枪の端を陵光へと向けていた。
監兵が出そうになる。陵光は止めた。そして一歩で兵の懐に潜り、步枪の先を右手で握って熱を籠めた。
陵光の手の内から步枪が熔け、液となって下に零れていく。左手は兵の肩に当てていた。
「解ろう」
陵光は静かに告げた。もう片方の兵が陵光を狙っていたらしいが、次には高く叫んだ。
目で追う。床に指が数本落ちていた。
「監兵! お前は──」
「ちがう! 兄々も剣を出してたから」
監兵の手に鉤爪、刃の内側に血が数滴。
やってしまったか、というのが陵光の落胆の本だった。監兵の性分を考えれば、指数本であったのがまだ救いだったろう。
どうにもできない。熔けた步枪の液で、床へ穴が開いている。他の禍が起きる前に、丁淩を先に部屋から出した。
陵光は監兵と少し留まり
「兵を運ぶ」
という事をやろうとした。このまま放置して恨みを得るよりかは善い。監兵も細かくは理解していなかったようだが、眸だけ上に向けるような貌は噓を吐いていないと察えた。
数人ずつ。気を失っている者や傷痍は抱えて、宿舎の戸口へ導くまではした。
屋外から夥しく音の交わりが響いてくる。たぶん執明と兵が争っているのだ。既に外へ出かけている丁淩を陵光は掣いて、他の口から出ようと示した。
前後を視て、狭い口を探した。即断ができない。陵光はすぐに切り替えた。
「監兵、前に行け」
「──うん、お姉ちゃんは」
「私から呼ぶ。周りを瞰ろ、目が向くのなら往なせ」
陵光はそれだけ言った。
監兵は陵光と外を二度ずつ瞥てから、外に出ていく。らしい金切り声が、すぐに耳へ入った。
陵光も寸毫置いて宿舎の戸口を開けた。丁淩の肩は支えている。まだ体調が真っ当では無いらしい。
視界が明るくなると、すぐに声を張った。
「執明殿! 執明殿行きますぞ!」
陵光の声に、周りの兵が睨んだ。目を向けてきた兵から、監兵と水弾に襲われた。
丁淩の车は東の方に停められていたはずである。急いで出てきたから、甲も拾わねばならない。やることは多い。
「陵光!」
執明の声が上から降ってきた。咄嗟に
──あまり見上げてはいけない
と考えて、陵光は手を翳すだけで応えた。執明からは、再びの返事は無い。だが、今の仕草だけで通じているはずである。
陵光は丁淩と共に车へと走った。その動きに監兵も従っている。
「お姉ちゃんは!?」
「あまり探るな、まず蹤いてこい」
二柱と一人。人である丁淩は、支えられながらとはいえ走るのに甚だ苦しそうでもあった。胸を抑えて、ときどき咳き込んでいる。
车に着いた頃には、丁淩の息は絶え絶えであった。
「ここで」
陵光は手で丁淩の両肩を抑え、地に座らせた。後ろで監兵が、兵が来ないかを見張っている。
「監兵、良いか」
「ん」
「ここで丁淩殿と车を守れ」
「いいの?」
監兵の声が沈んだ気がした。もしかすれば先の失敗を悔やんでいるのか。
「良い。律すれば責めん」
陵光としても、これしかない。甲を拾わねばならず、丁淩と车も満足でなければならない。陵光は甲を拾いに行くつもりであり、今の混乱に襲われた時に必要なのは、不全の規律よりも圧倒的な抑止であった。
監兵の顔を睹た。稚さが薄くなっている気がした。
「行ってくる」
陵光は短く告げて、甲の入った嚢を取りに向かった。
街衢である。兵の動きを察るに、執明の位置を探っているらしかった。
今ならば、陵光も動きやすい。
身を高くしないよう慎重になり、先に陵光らが身を潜めていた建屋の陰へと潜った。
嚢が三つ。在りはしたが、兵が数人で検分している。
兵の目は下から動いていない。その隙を陵光は差した。
一人を打ち飛ばし、二人目を組み伏せ、三人目の股の間へ剣の刃を当てた。步枪を向けられていたが、刃の圧しを強めて使わせなかった。
組み伏せた兵は首を絞めて失気させ、刃を当てられている兵が眸を揺らしたのを見計らい、その手に持たれていた步枪を両断した。
陵光は口が開いていた二つの嚢を閉じて、胴を挟むように肩に掛け、丁淩と監兵の待つ場へと戻った。
「執明殿!」
车の近くにまで還った陵光は、そう声を上げた。他で戦っていたはずの執明が居たのである。
周囲には兵の体が転がっている。
「──幾らほど」
陵光は訊いた。
「監兵ちゃんがやる前に、私がやっておいた。平気よ」
目を合わせながら話していると、どうにも執明ですら、大変事になっていまいかという不安を抱えているらしい。
「加減は取りましたか」
「私は得意」
「そうですか。车で逃げましょう。丁淩殿は如何に」
陵光は言いつつ、车に寄り掛かっていた丁淩を窺った。まだ蒼白としているか。
「乗せなさい」
「丁淩殿は车を馭せましょうか」
「今は逃げる方が先。彼の為にも」
執明は车の戸を開き、丁淩を押し込めるように乗せた。そして自身は、车の上へ手を掛けている。
「何を」
「私は天板に乗る」
「殆ういですよ」
「一番良いでしょ。それが」
陵光は其々の武具の使い方を思い出した。確かにそうだと思い、ならば陵光は丁淩の横に付き、監兵は後ろに備えさせるべきだと悟った。
急ぎ乗り込んだ。馭の席に座った丁淩に
「宜しいですか」
と問い掛けると、丁淩は力の入っていないまま、右手の親指を立てた。