柳之章「三柱を疑わ可から使むに、人人出師す」 一話
高地ゆえに、地の肌には残雪も度々ある。それを監兵は踏み頻っていた。
孰湖に先導され、三柱は脈打つ稜線を辿った。哈尔盖河の出る少し南、水脈が現れたところで
「これを辿れば人里よ」
と、孰湖に教えられてから、甲も解き、人の衣服へと着替え、只管に水脈をなぞって歩いた。
別れる間際、孰湖へ謝するにはどうしようか、とも考えていたが
「儂は見回りに忙しいから放っておけ、ほら」
と言われて、突き放されるように山地を後にした。
整えられた路など無い。水の岸と草ばかりである。そんな吹き抜ける原野を一日掛けて、夜更けにやっと路面が窺えるようになった。
「執明殿」
「なに?」
「瞰えていましたか」
陵光は執明に、散漫とした問いをした。ただ、共通する感覚があると確信しての事でもあった。
「あれ?」
執明は空に向かい、指を差す。
今の空の中で最も大なる星。その僅か下に、四連の星が在る。光は時折暗くなり、そしてその四星の周りの気が少し、赤い靄の様に囲われていた。
「ええ」
陵光は執明の応えを肯った。陵光に在る違和感というのも、執明の示したものと同じであった。
「ああなるのは、気分が悪いわね」
「貴女も思われますか」
「勿論。軍を動かすのに、よく瞰るから」
陵光は執明を疎んで居もする。だが、こういう観望はかなり似る。どちらともが、学を修めているからだろうか。
「こういう時は、何があるでしょうか」
陵光からしても、星の瞬きが不穏なのだ。頭の中では
──ああいう氛気は凶兆であろう
という常識が在る。
執明の将帥としての見方はどうであるのか。そう訊いたつもりであった。
「乱ね。しかも、湧くような」
「湧く──」
そこまでは、陵光に判らなかった。乱が起こるだろうとまでは想起できても、湧くという表現は範疇の外である。陵光と執明との、戦への距離の違いなのだろう。
しかし、乱が湧くと言われて理解ができない訳では無かった。天から墜ちる前にさんざ睹たのだ。
「西海镇にまで戻りましょう。丁淩殿が、私には心配です」
陵光は星から目を落そうとした。
執明は鼻から息を抜き
「その心配を、他にも向けないのかしら?」
という諧謔を、態度に含めて来もした。
現れた路を辿り、南に進んでいくと、やがて街の灯りが視界に入ってくる。全てに突き抜けるような景色であるから、見失う事は無い。この地の灯りというのは大抵、白であった。
水脈から四十里ばかりである。
西海镇の街に入る前、陵光らは
──何かおかしい
という勘がはたらいた。特に、己より執明や監兵が指に力を入れていると、陵光には察えていた。
「違いますね。雰囲気が」
陵光が会話の発端として、そのように言った。
慎重で在ろうと、姿を露わにしないよう建屋の陰に身を隠している。目だけを表に出して、街路の左右を探っていた。
来たばかりの時の明るい気配は無い。未明というのもあるだろうが、それにしては土臭くある。
それを表すが如く、少し離れた処に哈尔盖河へ向かう最中すれ違った、仰々しい车が停まっているのだ。径の大きな車輪、车の胴の後部には幕が覆われている。
執明は何も言わなかった。代わりにか監兵が
「兄々、あれかっこいい」
と、話し掛けてくる。
陵光は監兵が出過ぎないように、肩の辺りを手で、物陰に入るように押していた。
暫く視た。近辺に同じような衣服を纏っている者が、多く居るようであった。表情は固く、皆がくすんだ緑の衣である。
陵光の脇から、執明も彼方の様子を覗いていた。少し視ただけで陰に隠れると、ぼそりと
「私民では無い」
と、独りで言っていた。
「ええ、兵です」
陵光は追従して応えた。応える前から既に、なぜこんな大仰な展開をする必要があるのか、という箇所へと思考が廻り始めている。
成都のように怪が出たのなら、このように静かであるはずが無い。何か些細な騒ぎであるのなら、見えている者共がここまで固い面持ちのはずが無い。
留まり過ぎるのもいけなかった。三柱は察知されぬように、目の遮られている場を探しながら徐々に動いた。
少しずつ、朝ぼらけとなっていく。増した光も使い兵の動きを探っていくと、やはり意志を持った捜索とか警戒をはたらいている。
そしてその様子は、丁淩を留めた宿舎へ近付くに連れ、形を大きくしているらしかった。
──まさかな
とは、陵光も思っている。
「兄々──」
監兵は暇になって来たらしい。
もう少し静かにしておいてくれと、陵光は咄嗟に監兵の口へ指を当てた。監兵が目をそこへ寄せた所で、陵光は執明と意見を交わした。
「丁淩殿ではありませんよね」
「彼は逃げる。起こす側じゃない」
「ならば他か。ここまでになっている見当が付きません。地か人か──」
「地の問題に兵をこうは出さない。人よ」
「まさかと思うことが。身份证の事では無いでしょうか」
「勘繰り過ぎ」
「私には、そう思い至る事なのです」
陵光は執明を眄た。少し尖った目を、恐らくは向けていた。
「ま、良いけど」
執明はむしろ肩を寄せてくる。陵光が目を戻す時、執明はみずからの唇を少しだけ舐めていた。
「動きが無いな」
また少しして、陵光は言ちた。少し風が止んだ時に、何かが生む気の流れというものを肌で感じなかったのである。
もう少し出てみようかとも思った。それならばと、他の二柱に含意は無いか、陵光は顧みた。
監兵は嚢を下ろし、体を揺らしている。執明は目を伏せ、顔を宿舎へと向けていた。
監兵は特に含意が無いのだろうが、執明は音を聞いているのだ。
「静かすぎる。多いのに」
潜まった声で、執明が伝えてきた。
「ふむ。監兵、臭いは」
「ん? たくさん」
「そうか」
やることに詰まっていないか。様々な事物に於いて実は、揺るぎが無いのが一番対処に困る。
──いっそ何でも良いから動かないか
そのように陵光は考えている。
佇む内に、夜は明けきっていた。
こうなったら朝の遊歩を装って、無知な顔で尋ねるのが策かもしれない。それには三という数は多い。
「監兵、良いか」
「なんぞ兄々」
「ああ──嚢を預かる。独りで彼方まで行けないか」
そう言った陵光は兵の集っている、丁淩の留まる宿舎を指し示した。
「そんなこと、させるの?」
執明が問い掛けてくる。だが、声色に反感は無い。思考と覚悟を試しているのであろう。
「ええ、します」
「なんで」
「纏まったまま怪しまれる訳にはいかず、隠れ続けて八方塞がりになる訳にもいかない。行くのなら見た目にも、監兵が一番良いのです。それに襲われようとも、彼らはたかだか人です」
「ふうん。そうね、わかった? 監兵?」
「ほい」
こう尋ねたのなら、執明も理解している。陵光は監兵の甲が入った嚢を受け取り、独りで宿舎の前にまで向かわせた。出る前には執明が
「監兵。何を訊かれても、簡単な返事だけするのよ? 愛想良くね」
と、一言二言の助言を授けていた。
監兵は勇んで、小走りで向かっている。
陵光は少し嘆息を吐いた。それでも目は離さず、何かが起こればすぐに飛び出す準備はしていた。
兵が監兵を睹た。目が合うと同時に、監兵から兵へと近付いていった。
何をやっているのだと陵光は思ったが、むしろこれくらい強気であるべきなのかもしれない。
兵と監兵が、双方に話し合っている。
「執明殿」
「今の所は、だいじょうぶ」
執明の耳の鋭さならば、それくらい聴き分けられる。陵光から視ても、監兵はさほど多弁になっていない。
監兵は、にこやかである。あまり乱されもしていない。
「──あっ」
突発に執明が静かながら、それでも隠せない驚きを示した。
「どうしました」
「準備だけはして」
陵光はそこまで耳が能くない。ただ執明の貌はやや強張っている。
少しずれた目を、再び監兵の観察へと戻した。見えたのは、兵が監兵の腕を抑えかけている様子であった。
──拙いか
そう思った時にはもう、監兵によって兵が突き飛ばされていた。




