監兵の纏う白金の甲は、羽の怪の陰に覆われて暗い色となっていた。
しかし瑠璃色の目だけは、とても明けく光って見える。思えば戦う監兵を真正面から睹るというのは、陵光にとって初めての事である。
「いぃっ!」
監兵の歯噛んだ唸りが聞こえた。瞬間、陵光の間近にまで監兵が突っ込んでいた。
監兵の手に顕された鉤爪を避けつつ、陵光は彼の腰を腕に抱え、余った勢いを抑えた。
「通んない!」
監兵は宣っている。
陵光は監兵の体を抱えたまま、羽怪を睹続けていた。確かに、あの跳びに比べれば、羽怪の体勢は崩れていない。
「監兵」
「なん!?」
「前に投げるぞ」
陵光は返答を待たず監兵の体を前に、羽怪の頭へと向かって投げた。
体を翻しつつ、監兵は羽怪へ狙いを定めている。
叫び声と共に、鉤爪が羽怪の顔を掻いた。
陵光から、視線がずれた。痛みの方へと向いたのだ。
ならばと陵光は、剣の切っ先を直下へ向けた。重みのままに任せて羽怪の柔毛の立った背へと、突きに掛かった。
陵光が精を以て赤熱した刃を刺せば、周りの毛が小さな音で灼け焦げた。その臭いが少し、鼻に入る。腥さが混じっていた。
羽怪は叫ぶ。裸(人)のけたたましい声である。
堕ちるか、と思った。堕ちずに、羽怪は身を捩じった。
剣が抜け、陵光が振り飛ばされる。地に飛ばされながら瞥えた羽怪は、崩れた体勢を立て直し、翼をまた拡げていた。
陵光の背に衝撃が走る。
「兄──」
「来るな!」
地に落ちただけなのだ。この程度なら、陵光には然程の痛手も無い。そして監兵が、羽怪の気を惹いてはならない。
監兵の声へ首を向けた。目が合うと、頤で向こうへ行けと示した。
監兵が遠ざかっていく。
立ち上がった陵光は力を籠めて、剣に一丈ばかりの火焔を立ためかせた。揺れる朱黄は羽怪の目を惹くだろう。
羽怪の目の色が強くなったか。
陵光は羽怪への睹視を、広範への眺望に変えた。
──執明殿は何処だ
もしも玄が在れば、明るい緑の中だから判りやすいはずだった。近くの山肌、或いは細い水が在ればとも思った。
眸だけを陵光は動かす。
右前方。鞣された如き玄色、紫紺の光沢。
陵光は飛んだ。羽怪へ目掛けた。振り被って、本当に両断するつもりであった。
空高き所、羽怪の翼に陵光の視界が覆われた時、水の精気が向こう側に集っていると判った。
執明の放った水弾が、次々に飛来しているのだ。
陵光も斬った。羽怪は悶えた。途端も無い急襲が、余程に痛烈であったか。羽毛を散らし、飛ぶ型を変えて、遂には堪え切れずに忙しなく翼を羽搏かせている。
陵光はもう一撃、幕のような水弾を避けながら叩き付けた。
羽怪は顔の向きを変え逃げていく。その背にもしつこく、執明の放つ水弾が追っていた。羽怪が一里離れるまで、執明の攻めは続いていた。
水弾が止み、些か刻が経った。やっと離れていた執明が、陵光と監兵の元に戻ってきた。
「お疲れ」
執明は労いの言葉を口にした。
「逃がしましたが──」
「良いのよ、陵光。あれを討つのは、本命じゃないもの」
そう言いながらも執明の目は、羽怪の逃げた方角へと向いている。本命では無いとしながら、もしかしたら心残りが在るのだろう。
「大陽でした」
陵光は足の位置を変えようとした執明に、己の所感を伝えた。
「ええ。旱でも起こすんじゃない?」
「前にも監兵と、そういう怪に挑みました」
「へえ。おんなじ?」
「蛇です。これは逆に、水でした」
「面白いわね?」
執明が陵光を、下から覗きに来ている。陵光は目を逸らしてから考えた。
水を強く吞んでしまうからこその旱。陽に強く水を殺すからこその旱。確かに執明の言う通り、面白いと謂えば面白いのだろう。
だが陵光にとっては、歓迎するものでは無い。擾乱数多となれば、処理もできないのだ。
陵光は目を伏せた。また山神を探さねばと決心するのに、少し刻が要る気がした。
「ああ、監兵──」
監兵が会話に入って来ていない。何か気が散っているのだと、呼び戻そうとした。
目を上げた。そして絶句した。
裸の頭、馬の体、翼と蛇の尾。奇妙に白光を放つ獣が、監兵を抱き上げている。音すら無く、気付けなかった。
陵光は慌てて、再び構えた。
「あっ待て、救けてくれたのに今度は襲う気かお主ら」
奇獣は陵光らへ、言葉を捲し立てている。
「知らぬ。離さんか」
「怒るな朱いの。さっき設々を追い払ってくれたじゃろ──」
「設々などとは知らん。監兵を離せと言っている」
「可愛いものは抱き上げるのが慈しみというものじゃろが!」
一頻り言い合って、双方が黙った。
執明はたぶん、見物を決め込んでいる。静かな内に、陵光は次の文言を練らねばならなかった。
「──名は」
陵光は奇獣へと問い掛けた。
「朱いのは名乗らんのか──儂は、そうさな。まあ孰湖と呼べば間違いない」
やっと落ち着いたという様子で、孰湖と名乗った奇獣は監兵を下した。そのまま声を漏らしつつ四肢を折って、地に伏している。
「さっきはすまんな」
孰湖が眉を八の字にして謝っている。
陵光は困ったと、執明を瞥た。
執明は目を返して、安心しても良いだろうという余裕を構えている。
陵光は受け取ると、草を踏んで孰湖へと近付く。ある程度まで行っていきなり、孰湖が喝と叱正を上げた。
「そこ」
孰湖は言いながら、頤で何かを指している。陵光はその頤の動きに従って、足元を見た。
小さな花弁の、紺色の花が咲いている。
「慈しめ」
孰湖の低い声のままに、陵光は花を避けた。
「それで善し」
孰湖に眼前でそう言われた時、陵光は初めて緊張から解かれた気がした。
つまり孰湖は、そういう格の相手ではないか。陵光だけでなく、少し間を空けていた執明や監兵も、同じく感じていそうだった。
「まあ、ほら。話そうや」
孰湖はもう、表情を柔らかくしている。
しかし陵光は礼を失してはならないと、剣を解き、拝礼の型を取ってから端座して、初めて目を向き合わせた。執明も礼儀作法には慣れている。監兵だけがそうでは無い。
どうしようかと悩む部分であったが、孰湖から気にするなと告げられたお陰で、気にする必要は無くなった。
「お主ら、まあ人では無いな」
三柱への問いである。
「はい。如何にも」
礼には聡い陵光が、孰湖への対え役へと回っていた。
「だが、土地神の類でも無いな。天か?」
「確かに」
「珍しいことだ」
ふつう天からは、相互に伝達する為の鳥くらいしか来ないのだという。最近は鳥も来ていなかったが、それを補うのにも陵光ら三柱は、遣いとして仰々し過ぎると孰湖は云った。
「墜ちて参りました」
陵光は孰湖の疑いを晴らすべく、正直に言った。
孰湖の目が歪んだ。
「墜ちた? はあ──」
「天は大乱しております。異形が湧いたのです、故に我々は天に還りたいとも」
「大変なものよ」
「真に。孰湖殿は格も貴いとお見受けします。不躾ではありますが、何か手立てを御存じではありませぬか」
陵光から問われた孰湖は、余所を遠く見た。翼を少し開き、風に撫でさせもした。
「まあ」
「本当ですか」
明確に答えられてもいないのに、陵光は膝を立てて身を乗り出した。
その勢いを、孰湖が制した。
「待て。彼奴らにも依るが、という話だ。お主ら、五岳は識っておるか」
「ああ、それは」
陵光は少し言い淀んだ。
「嵩、崋、泰、恒、衡。よね?」
後ろの執明が声を落として、すかさず割り込んだ。
そうである、と孰湖は目容を送っている。
「そこを詣でて、儂と同じような山神にでも問え。それくらいしか言えんな」
「確かですか」
「まあ──どうかな」
今度は孰湖が言い淀み始めた。どうにも煮え切らない部分があると、貌に書いてある。
「不確かだと」
「儂、つまり孰湖という神が素直な方だと、そう思っておけ」
「お訊きしても?」
「今の世は姿の現し甲斐が無い。この言葉が答えよ」
陵光は訝しんだ。孰湖には威厳も、慈悲も在るように思う。そういう神が姿を現す甲斐が無いとは、どういう解釈をすれば良いのか。
「慈悲も、威厳も在りますれば。人は尊ぶのでは」
「さて、通用するかな」
孰湖は大きく、溜息を吐いている。
「取り敢えず行け。あと、名を訊いておらなんだ」
「私が陵光。右が監兵、左が執明」
「ああそうか。先に言った慈しめとは、ちゃんと守れ。な」
言い終わった孰湖はのっそりと体を持ち上げ、どうせならと帰りの案内も申し出た。