星之章「西山随に蕩遊、山神居るに幽幽」 四話
丁淩は西海镇中に在る宿舎へと預けた。陵光が肩を支え、丁淩に言われた通りに運び、後の手配は丁淩自身がした。
宿舎を見張っている者は陵光らの姿を見るなり
──怪しい
という反応をしていたが、丁淩が持っていた身份证を示せば、まあ良かろうと一柱一人を奥の部屋にまで通した。
まだ看病は必要ではないか。陵光はそう考えていたが、丁淩は牀に身を突っ伏すなり陵光の体を手で突き放すまでした。
たぶん、構わずに行けという事なのだろう。そう判じた陵光は、丁淩の顔色をもう一度視てから、執明らの待つ街の外れへと向かった。
風が強い。周りに喬木が無く、近くに山がある。気も薄いから流れやすいのだろう。
「兄々!」
監兵が陵光に手を振っている。背には甲の入った嚢を背負っていた。
甲入りの嚢を背負っているのは、陵光も執明も同じである。入っている物だけに、嚢は大きくなっている。
周りに気にされないか、とも陵光は思っていたが、出歩く民衆にも同じ程度の嚢を背負う者が多かった。むしろ目立たないようにと購った服の方が、ここでは異様であった。
民衆みなが、陵光らと目的を同じくするとは思わない。たぶん旅楽の類である。
「行きましょ」
執明が先導を引き請けた。案内をするといっても、手には何も持っていない。
「方位は」
陵光は問うた。
「確かめるほど、路は入り組んでない」
執明の答えに、陵光は遠くを瞰た。広く吹き抜けている。確かに、路を張り巡らすほど雑多な景色ではない。
北に山が連なっているから、あの中に向かうのであろう。
三柱は歩き始めた。広い平原を黙々と進む。横を、豪壮な车がたびたび通っていった。
日の傾きを察る。もう夕刻らしい。隣の監兵が駆けだそうとして、それを陵光が抑えた。
周りは荒涼としていて、草木が寡ない。だが死の地かと問われれば、陵光には寧ろ生に蔓延していると感じていた。風は強いが澄んでいて、音も多い。肌に当たる砂粒が気になっているが、それもまた生の気の氤氳であろう。
監兵が駆けようとしたのも、この地の気脈が性に合っているという事なのかもしれない。
逆に、陵光には合っていなかった。
「この辺りは、水が盛んだ」
陵光が呟いた。
執明が顧みて、当然だという貌をした。
「青海湖、近いもの。川も在るしね」
「私には余り適していません」
「弱ったわねぇ?」
執明は陵光の横に立って、腕を組めと示してきた。
陵光は手を翳して
──止めろ
と、無言のままに伝えた。いま執明に触れられたら、もっと弱るのだ。
「ずるいなあ、お姉ちゃんは」
「え? 監兵はそう思う?」
「うん。兄々にそんなふうに近づくのはずるいぞ」
「そう──じゃあ監兵ちゃんと一緒に行こうかしら?」
執明はそう言うと、陵光の後ろに蹤いていた監兵の傍へ、身を寄せにいった。二柱して燥ぎ立てる声を上げる中、陵光は独り
──せめて前でやってくれまいか
などと、心の中で言ちていた。
西に行き、北に逸れる。それを繰り返せば迷うことは無かった。
西海镇から百餘里と進むと、左に水脈が現れる。今までの市中で見た川と比べれば、地に水を撒いたような散漫さとうねりを持った筋道であった。
曰く、これを哈尔盖河と云うらしい。周囲には丈の低い緑。
次はこの水脈を辿るのだ。先は少し高い。
迷わず、三柱は山間へと踏み込んだ。哈尔盖河に沿う路は粗いが、通るに不足無い。
少しずつ登っていくと、水の横の緑は雲の如くなった。
涼やかである。辺りには気配も少ない。
「ん」
「どうした。監兵」
監兵がいきなり動きを止めた。何か不穏を感じたのではないかと、陵光は即座に問い掛けていた。いつもの如く、鼻が利いたのだと思っていた。
「うーん」
「判らないか」
「びみょう」
監兵だけで判断できぬのならと、執明にも訊きに回った。本当なら陵光も気の流れで察するべきであろうが、風が強いせいか紛れているのかもしれない。
「執明殿、何か聞こえますか」
執明は口元に指を当てて、目を薄くした。ややも音が、途切れた。
「──そうね」
「音は」
「ちょっと判り辛いかも。私も、この地の本の音は知らないし」
「少しでも違和が有れば、屈託無く教えてください」
「羽搏き。でも、どういうものかまでは見てみないと」
「向かいますか」
「鉢合わなくて良いなら、触れないのが定石よ?」
それもそうであった。陵光は肯いて、まだ臭いの元を嗅ぎ分けようとしている監兵の背を押し、路を辿ることを続けた。
それから五十里も行かず、路は途切れた。ここまでが境界なのであろう。だが山頂を目指すとなれば、示された境を越えなければならない。
「ここからは──」
陵光らは甲を纏い始めた。肌を晒すのだろうと、男女に分かれるべく少し距離を保った。
陵光は羽を模した甲、監兵は白金の甲である。
執明も総身に甲を着けた。張り付くような玄色の甲、金の蛇を模した装飾が巻き付いている。撥ね返される光は紫紺であった。
「星。玉よりも小さいのに──」
甲を体に馴染ませながら執明は言っている。確かに甲に着替える間、いつの間にか夜になっていた。空を見上げると、小さな光が爛漫としている。
「そうとばかりも言っていられない」
陵光はこれまでの衣服に詰め替えた嚢を背負いながら、執明に応えた。
「冷たいわね?」
「我々の目的は山神を捜すことなのです。星を瞰るより難しい」
鼻哂する執明が居る。そんなに可笑しいことは言っていないと、陵光は思っている。
「ほい。行こ!」
監兵が無邪気に割り込んできた。陵光と執明は監兵の言う通りだと、路無き路へ潜っていった。
草に富み、勾配に富んでいる。突き進むのに厄介であった。
少しずつ上へと登っていき、取り敢えずは見渡しの利く峰の頂に達した。風は更に吹き、日は中天である。
「明るいな」
頂上に着くなり、陵光は景色の抜け方をそう評した。横には執明が、黙ったまま並んでいる。
陵光にも執明にも、こういう場所では見回す癖がある。目の運び方だけが、少し違った。
「見当は──」
東南を陵光は窺っていた。執明はその反対である。少なくとも東と南には、変わったものは視られなかった。
「付かない?」
執明が問うてくる。
「ええ」
「なら、こっち向いてみて?」
何を言っているのだ。陵光は眉を顰めながら、執明の方へと振り向いた。
「あれ」
執明の指が差されている。先を睹ると、どこかの峰の山腹が在った。
その上、一対の翼がはためいていないか。しかも尋常には飛ばず、何か一点に空で留まっているらしかった。
すぐ、向かうべきであると判じた。陵光だけでは無い。
「兄々」
「行こう。執明殿も、宜しいですか」
「ええ。私も気になるかしら──」
三柱はすぐに峰を下った。特に気にする事は無い。精気は衰えておらず、甲も纏っているのだ。
着実に歩くのではなく、飛ぶように走った。監兵は駆け、陵光は空を踏み、執明は山肌に水の気を張って滑降した。
遠くからでも巨大に見えた翼は、近付くほどに具体となった。
──九丈ばかり
そのように、陵光は目算を付けた。
「執明殿、羽である。監兵は控えさせよ!」
「分かってる、でも私も近付かない」
陵光にも、執明の意図は掴めた。まず陵光が目を惹くべきである。執明の存在を悟らせず、監兵の動きから目を逸らすのだ。
目前、もう羽の尾は揺れていた。
陵光は左手に剣を顕す。
監兵は、後ろか。
「ぬう!」
一太刀、尾の根を斬りつけた。胴に足裏を着かせ、踏んで上へと跳び上がる。
相手も気が付いたか。裸(人のこと)の顔、剥いた眼。
その陰で監兵が、上へ目掛けて跳ねようとしていた。




