星之章「西山随に蕩遊、山神居るに幽幽」 三話
「兄々、これ!」
監兵が新たな衣服を、陵光へ披露してくる。先に感じた通り体に比べて大き過ぎるから、肩口が表れてしまっていた。
陵光はちらと瞥て、すぐに目を车の進む方へ戻した。
「褒めてあげたら?」
執明が勧めてきたが、それに応えるのは陵光の領分と違う。
「意図が判りません。もう少し、まともな衣は選べませんでしたか」
「これが一番、良いと思ったの。監兵の小っちゃい体が映えるでしょ?」
「衣帯が紊せば、精神も乱れるものです」
「帯が締まれば、息ができなくなる」
そうでしょう、という貌をされた。言われた陵光は馬鹿々々しくなって、もうこの事については話すまいと決めた。
衣服を購ってから一刻ばかり。车は山間を進んでいる。
左右は緑である。今ぞは外の方が、気が好かろうとも思う。
じっさい監兵は堪え切れずに车の窓を開け、風を内に取り込んでいた。馭の男も風に、少し気を晴らしているようである。少々の鼻歌が聞こえてきた。
執明は黙っていた。陵光は顳顬に肘杖を突きながら、いままでに聞きそびれた事を問うた。
「山神を訪なう由は何です」
「天に還りたいんでしょ」
執明の答えはそのような、ごく簡素なものであった。
後は自分で考えろ、ということなのだろう。それとも悪い癖であるのか。
陵光は顳顬に拳を当てたままである。瞑目した途端に
──神の事は神にしか判らんのだ
という事だと、思い至った。
「墜ちるのは易いですが、昇るのは苦労しますね」
ふとそんな嘯きも、陵光の口からは出た。
「──そうね」
執明は、またも簡素な返事をした。
また一昼夜。武山なる地に留まった。
汉中から何処か、と陵光が執明へ尋ねると、だいたい千里ばかりだと返ってきた。
だいぶ地の様が違う。いままでは深緑であったはずが、黄土に変わっていた。
「また车で泊まりますか」
「そうね──本当は、宿が使いたいけど」
「支障が有ると」
「所在を示す物が無いと、使えない」
护照とか、身份证とか言うのがそうであるらしい。护照は外地人の身分を、身份证は内地人の身分を表す証であるという。
「でもほら。私達って違うじゃない?」
執明は明け透けに言った。
「なれば執明殿は、どうされたのです」
手机もある。成都で雨瓔という名が知られていた事からすれば、多少は目立っている。だが執明が身分で不自由しているようには察えなかった。その疑問を陵光は差し出したのである。
執明は頤で、馭の男を指差した。
「彼がやった。なんとかしてね~、って」
「まさか偽装なされたか」
執明は片眉を上げている。
この態度に、陵光は苛立った。文官であるから、公文書を捏造がどれほどのものか識っているのもある。少なくとも陵光の常識に於いては極めて重い。
「仕方ないじゃない」
「仕方ないとは。公に於いて大罪です、お忘れか?」
「忘れて無い。現に陵光たちは、私のお陰で助かってるでしょ? もし作ってなかったら。今頃どうしてた?」
執明は己の目の下の黒子を撫でながら語った。仕草からして、陵光を試している。
流石に己に分が悪そうだと、陵光も察しはした。
「そうですか、そうでしょう。確かに」
肚が立ったのを抑えながら答えた。
執明は微かに笑んでいる。
「じゃ。そういうことで──」
話を切り上げた執明は、夜陰の中でどこかへ歩いていった。
確か、车を停めた処の近くに川が在るという。それを眺めに行ったのだと、陵光は推し量った。川の名を、渭河と云う。
明朝。暁である。
赤い光を黄土が撥ねると、ややも赤銅に錯覚する。或いは黄金か。
光が強い中を、陵光らを乗せた车は西行した。
ここからは少し、北へ逸れるのだと執明は言っている。馭の男も同意しているらしい。次からは黄河、そして湟水を目途にするという。
「雨瓔、我会休息一下」
「为啥?」
「我头疼……」
男と執明が話し合っている。隣にいる陵光はすぐに、男が何か不調なのだと思った。
会話の後、呆れ気味の息を吐いた執明から、陵光に声を近付けてきた。
「彼、頭が痛いらしいの。休むけど──」
「休むべきです」
陵光は即答した。己と男の間で無言に過ぎたと、反省する気分もあった。
道端、雑に车を停めて、男は己の座っていた馭の椅子を倒し、横になっている。
監兵は脇目も振らず、车から飛び出していた。何日も座ってばかりで飽きたのだろう。ひとまず、あまり遠くに行ったら成都で迷った件と同じになると、陵光は釘を刺しておいた。
「ふうん──」
「何です、執明殿」
「優しくなったわねぇ」
揶揄いが混じっていた。陵光は執明に、刺す視線を送った。
「──監兵は良いでしょう。それより」
「なに」
「彼の男についても教えて頂きたい。誰何もせずに信用しきれません」
そうは言ったが実は、陵光の言葉は嘘である。何かと云えば、男への同情があった。
「私が用いている。っていうのは、足しにならない?」
「なりません。せめて名を」
執明はにやにやとし続けている。だが目が縦に開いたとは判った。
「丁淩。彼の名前」
「役は」
「まあ、胡散臭い猿回しって感じ? これで良い?」
陵光は车の中を竊かに見た。執明の言だけを聞くと悪人のようだが、果たしてここまで馭を請け負う者が、そんなに悪どいのか。
──まあ良い
と、陵光は執明に目を戻した。
「丁淩殿──道程を考えれば、これから長いのでしょう。知っておかねば」
「ま、そうね」
執明は素気が無い。蔑ろにしているのか、敢えてそうしているのか。陵光にはまだ、推察もできなかった。
けっきょく如何ほどか。
男、つまり丁淩が恢復するまでには一昼夜を掛けた。漸く体を動かしても、少々良かろうという程度にはなったらしい。陵光らは万全のままであったが、やはり人とは不便な部分が多いという。
また车は走り出した。北行幾何、再びだいたい五百里の辺りで、また西への路に入った。
緑葉は依然として寡ない。日数だけ算ぜば、もう夏に近かろうと思う。しかし肌に当たる風は似付かわしくない。もっと行くと土が黄色から、赤くなったりもした。これならば地宜が違うのだ。
路の横に、川が通り始めている。
「川の名は何ですか」
陵光は執明へ、軽く確認した。
「湟水」
この川を源に向かって進めば、徐々に目的の地へ近付いていくという。そして、それすらも越えて西海镇なる地までは、车で行くという。
「そこまでで、彼は留まる。私達だけで山に入るから」
「丁淩殿は無事でいられますか」
「私達が居る方が、危ないと思うけど?」
解っている事を全て教えない。勿体振るなと言いたいが、これも執明のやり方なのだろう。
それなら次に問うべきは、西海镇からどの様に、どの山に入るかではなかろうか。
「哈尔盖河、でしたか。如何に」
「歩く。二百里から三百里」
「その間は」
「何も無い。でも──人には注意かな?」
「人にですか。余り聞いた事はありませんが」
執明の言は意外である、と陵光は思った。
これまで、陵光にとって人とは恭しい類であった。気を付けていたのは騒ぎを起こす輩であるが、そういう者共も幾分、些少であったという記憶しかない。
その人という存在に、怜悧でもある執明が気を付けろと謂ったのだ。ならば、あまり軽くない。
「あの辺り、そういう気風なのよ。それだけ覚えておいて?」
どういう事かと陵光は考えた。
天に置き換えれば化外、という事なのだろうか。それも違いそうだと、執明の貌に思う。化外程度ならば、執明も数多に経験したはずなのだ。つまりはもう少し、固い話でありそうだった。
「見えなければ判りません。着いてから考えます」
「それが良いわよ? じゃ、宜しく」
執明は椅子に凭れて、次は気分を疼かせている監兵へと話の相手を移した。
のち数日、西海镇である。
丁淩の顔が蒼白としている。陵光はその背に掌を当てて、少し温めていた。
「言うべきが有れば、言ってください」
言語の通ずるかは置いておいて、誠意として丁淩に伝えもした。
「早くしなさい」
執明と監兵は、既に外へ出ている。
陵光は手で今暫くと示して、丁淩の看病を続けた。




