星之章「西山随に蕩遊、山神居るに幽幽」 二話
夜も更けての事である。陵光ら三柱を乗せ、小太りの男が馭し続けた车は、途中で柴油という物を補いながら進み、やっと車輪を落ち着かせた。
街の手前である。そしてこの街を汉中と言うと、陵光らは執明から教えられた。眼前に在る川は、汉江と呼ぶらしい。
「ここですか、それとも」
「まだよ」
陵光と執明は车の横で話していた。監兵は车の中で寝てしまったし、馭の男は離れた処で紙筒を咥えている。咥えた先から、煙が見えた。
陵光は執明から目を逸らし、疲れた息をした。
「なに? 疲れちゃった?」
「──特に何でもありません」
「そう」
間に監兵が居ないのは、陵光にとって苦しいものがある。己が玩弄を受けまいかと、つい不安になっていた。
「そんなこと、しない」
「そうですか──いえ、そんなことは」
「ふーん。でも私としては、やっと対等に話せると思ってたのにな?」
執明がわざと語尾を上げた。また、陵光の眉間の皺が濃くなった。
「そう言うのなら、場所を教えて頂きたい」
「なら。崦嵫って解る?」
「西の際。日の入る処。そういう山であるとなら、識っています」
「で。苕水が西に流れ、海に入る。少なくとも山海经典には、そう書いてある」
「西に海ですか」
「ここには西に、海なんてないわよ」
「はあ──」
陵光は声を漏らした。
執明が書と実際との矛盾に悩んだとは判る。だが何故かと論ずるには、陵光はこの地を識らなすぎた。
「あと、苕水も無い」
執明は畳み掛けてきた。
「では、崦嵫が在ったとしても辿れない」
「名が変わったのかもしれないしね。でも、辿れるのよ? これ」
「無いのにですか」
「渭水は解る?」
「書に在る物なら、解ります」
「渭水はちゃんと流れてる。そこから測る」
執明が首を傾げている、そう察えた。腰もうねっている。こういう時の執明は実は答えを持っているのだと、陵光は知っていた。
「つまり、何処です」
「え~、どうしましょう──」
「え~、では無いでしょう。貴女も将なら解っているはずだ」
陵光の口調がつい荒くなった。己で気が付いて、少し口の辺りを触れた。
「仕方ないわね? はい、これ見て」
執明が陵光の横に体をぴったりと付けて、腰に手を回してから目の前に手机を翳した。その表に陵光が墜ちてきたばかりに見た、土地を表す画が出されていた。
「これ。解る?」
「恐らく、この部分は水でしょう」
陵光は藍のような色の部分を指した。
「そう。今じゃ青海湖って、云うらしいんだけどね」
「で、何でしょうか」
「この東には山があって、哈尔盖河っていう川が在る──瞰える?」
土地に無知な陵光には判別できない。執明は
──庇ってあげる
という目で、陵光の双眸を捉えてきた。
「これが苕水じゃないか、ってわけ」
「確証は」
「無いけど?」
再会から初めて、陵光は執明の目を真正面から睹た。
踵の高い沓、それで高くなった執明の目が、陵光の目と同じ高さにある。
「あ。そうだ」
「まだ有りますか」
「とりあえず、孟章の图片も入れといたのよ。ほら」
執明が手机をいちど除けた。少し手で弄ってから再び出すと、確かに孟章らしい、大きな背中が映し出された。
「──確かに、孟章に近しいです。何処に」
「泰山。でーも、まずは西」
「理由は」
「手間だから?」
また悪戯っぽく言って、執明は陵光から離れた。つくづく、陵光は
──この者は何故、こういう曖昧さがあるのか
などと思った。
翌朝である。牀は车の中であった。
監兵、馭の男は寝ていたが、陵光と執明は起き通しであった。
己が疲弊していると判ったぶん、陵光は何とか休もうと思ったが、長らくあった習慣を一夜の内に革められなかった。たぶん、執明も同じであろう。
陵光の横、馭の男は车を動かしつつ、生欠伸をしていた。
「平気でしょうか」
陵光は執明に訊ねた。
「平気よ? 彼は激務に慣れてる」
人は神と違ったはずだろう、と陵光は詰めたくなったが、身の振り方を察ると確かに、男は休まないことに慣れていると思えた。しかし、そこでは無い。
「執明殿らしくありませんね」
「そう?」
惚けられた。確かに執明は、仁将として名が在ったはずだ。それがこの様に下を扱き使うというのは考えも、見聞きもしなかった事である。少なくとも、陵光らを除いた公の場ではそうなのだ。
「もしかして。勘違いしてる?」
執明が身を乗り出してくる。
「何を」
「彼との関係。──麾下じゃなくて、利害の間柄よ?」
そうか、とも陵光には言いづらい。だが吞み込むしかないのだろう。
「ま。そういうのは無しにして、今日は違うことしましょう?」
「昨日話した地には、まだ?」
「ええ、その前に。弊れちゃった衣をなんとかしないと、そう思わない?」
執明が得意気になった。陵光は腕組みをした。
確かに成都で、己らの甲は煌々然たり過ぎると実感したのだ。乗らないというのも、違う。
だから、汉中でまず衣服を購うのだ、と執明は言う。
陵光は肯いた。
「あたしは!」
衣服を売るらしき店が向こうに在る。監兵が车を停めた時に、少し駄々を捏ねた。
「待ってて?」
「いやだ。あたしも選びたい」
「だいじょうぶよ。監兵は何を着ても可愛いから。ちゃんと、お姉さんが選んできてあげる」
「いいの?」
「うん。だから、お留守番ね」
目をずらすと、馭の男が何か不満しているらしかった。苦労すると、どこかで感じ取っているのか。
「私も残りましょうか」
陵光は言った。監兵が云々というより、馭の男が心配になったのだ。
「陵光は来て。いろいろ見たいのよね」
「──そうですか」
もう致し方無い。陵光は執明に連れられて、二柱のみで衣服店へと入った。
陵光も、まさか甲で店に入る訳にはいかない。馭の男が持ってきたという服を、仮に着ている。
灰色の衫と、膝までしかない袴。周りの目が何故か、陵光に集まっていた。
「早く出して頂けませんか」
「楽しむの。急くと損よ」
慣れていない事もある。陵光は押し黙るしか無かった。執明はと謂えば様々に衣服を取って、陵光の胴へと当て。それを繰り返した。
何をしているのかは、あまり陵光には解らない。
「やっぱり──元が良いものね──」
そんな言葉が、端々で聞こえるだけである。
「よし、これ」
執明が切り上げたのは、一刻も経ってからだった。監兵の衣服については、陵光で悩んでいたのに比べると、すぐに終わった。
黒の首上まで覆う長袖と、新たな牛仔裤。陵光の新装である。
「夹克は有ったわよね? 襖の」
「ええ」
「あれだったら、まあ良いんじゃない? 私は無い方が好きだけど」
「そうですか」
陵光は受け流した。まともに答えれば、執明にまた良いようにあしらわれる気がしている。
「じゃ、帰りましょ?」
執明の機嫌が良くなっていた。そこまで陵光に付き合われた事が嬉しかったのか、どうなのか。僅かに訝しみながらも、監兵と男の待つ车へ向かった。
「んでね、んでね」
声が聞こえてくる。车の中、監兵が話しながら笑っていた。男も笑っている。
──何があった
陵光は二人の内情を、少し洞察しようかと思った。
監兵の身振りが大きく、男が聞き手となっているのだとは、なんとか分かった。気分が良いと云っているのは男の方だとも感じる。
「何が有ったの~?」
執明が声を弾ませつつ、辺りに構わずに车の中に入っていく。陵光は後を追うように、少し速足で乗り込んだ。
「ん。この人の车、かっこいいねってほめてたの」
「ふうん。何が?」
「え? ──おっきいとこ」
監兵の目がより丸くなった。陵光からしても、執明が少し突っ掛かったのだと声で分かった。
「おっちゃんの车はおっきくて、低い音なのがすき」
「監兵、執明殿が買ってきてくれた衣を見てはどうだ」
陵光は、会話となっていない会話を断ち切りに入った。
「執明殿」
そう呼びかけた時には、執明はいつもの表情に戻っている。
「そうそう。はいこれ」
「お、へへ。ありがと」
監兵が少し乱暴に取り出したのは、その体に見合わぬ大きさの白い襌であった。




