星之章「西山随に蕩遊、山神居るに幽幽」 一話
车という物には初めて乗った。外の景色が流れ行く中、陵光は毛氈の椅子に腰かけて、走れば揺れの少ない事にまず驚いた。
それでも、天の車駕には及ばないか。
「而して、これは何ですか」
陵光は雨瓔と名乗っていた執明へ、話の突端を投げた。
「これ? ああ、步枪よ。握把に付いている杠杆を──」
「違います。何故、貴女が、あの場所に、このような方法で来たのかと問うているのです」
陵光は執明の貌を確認するために、己の右前の上に懸かった小鏡を覗いた。
執明の腿の上。監兵が頭を載せている。そしてその頭を、執明の手が撫でていた。
「監兵。車駕でも綏(昔の車にて乗降や体の安定のために掴む紐)を掴むものだろう」
陵光は叱責した。監兵は嫌々に頭を上げようとしたが、執明が押さえ留めている。
「執明殿」
陵光は語気をやや強くした。
「良いじゃない。私も監兵から離れたくないもの」
「そういうものでは無いでしょう」
「陵光が律儀過ぎるだけよ?」
陵光の肩口からは平たい帯が、腰元までに伸びている。
これを付けねば危ない。最初に言ったのは執明のはずだった。
陵光は一度、息を往復させた。
「で、先程の問いの答えは」
「解るはずでしょ?──」
気配も無く、執明は陵光の耳元にまで口を持って来ていたらしい。
纏わり付く吹気。陵光は思わず頭を逸らした。
──こうだったか。いや、こうだったか
否定して、肯定した。以前から執明は、陵光と監兵にこんな態度なのだ。水軍将帥執明のらしさを、出されたことが無い。
監兵は懐いているが、陵光からすれば鬱陶しい事この上ない。実は神としての性質が似していることが、陵光にとって何よりもややこしい部分である。
「雨瓔、这帮家伙是谁啊?!」
陵光の隣、璧のような物を使い车を馭している小太りの男が、声を放った。問い掛けのようであるが、声は随分と喧しい。
「你看路啊!」
執明は、この地の言葉で言い返している。声の向きで解る。男に話したのだ。しかし執明の喉からは聞いた事の無い、変な声の強さだった。
「執明殿は、この地の言葉を知っているのですね」
「必要だったの。もっと褒めての良いのよ?」
そう言われると共に、陵光の頭を冷たい感覚が走った。
執明の手だ。震えそうな声を堪えて、しかし鼻梁の皺までは抑えられなかった。
「ともかく執明殿、誘ったという事は、誘うだけの理由も、手立ても有るという事でしょう。それをまず教えて頂きたい」
陵光は少し早口になった。嫌らしい部分もあるが、執明とはそれだけの頭脳の使い方をする神なのだ、という観念が陵光にはある。
また、頭上の小鏡を窺った。執明は今度、背もたれに腰を遣り脚を組んでいる。映りこんだ双眸が、陵光の目と合っていた。
「言わないと判らない?」
「言うからこそ、判るのです。何も情動ではありますまい」
「私にそんなこと言うなんて──酷い」
「貴女は智者でしょう。他を整えてから、情を使うはずです」
執明はにっこりと笑った。
「やっぱり、可愛い」
そう言う口元は常々から蛇のようだと、陵光は思っていた。
一刻弱、车は走っていたか。
车の馭をしていた男が、もうそろそろ休ませろと愚痴を溢した、らしい。執明がそう言っていた。ならば休もうということで、车の停められる処で少し外へ出た。
「さっき、なぁに話してたのっ?」
監兵が覗き込んできたが、陵光は態度を濁した。
「まあ、来い」
そう言ったままで、陵光は執明に近付いた。
執明は首を回している。
水の神が何を理由に体を疲れさせるのか。そんな言葉を陵光が投げてみると、執明は顧みながら
「癖になったのよ」
とだけ、答えた。
「──監兵を甘やかしなさいますな」
陵光は話題を戻すために、そう言った。
「陵光が厳しすぎるの。そう感じない?」
「務めを果たしているまで。それで。多少は口を開いてくださいますか」
「そうねえ──」
陵光は執明の言葉を待ちながら、首の後ろを撫でた。少し、無意識だった。
「まあ、私なりに色々蒐めてたの。変な風聞は無いかな。って」
「そうでしたか」
「そう。红发勇士? 凄かったじゃない?」
止めろ、と言いたくなったが、思えばそれを知っているということは、红发勇士なる言葉を探ってきたという事だと思えた。
そして実際、そうであった。
「それと、あとは怪の出所ね。なんとか、あなた達を見つけた」
つまり怪に頻発に足止めを食らったのが、逆に良かったということか。
「お姉ちゃんありがとね」
監兵は無邪気に言って、執明に可愛がられている。だが元はと謂えば、誤算でしかなかったのだ。良かったと言うことは、陵光には難しい。
「皺。凄いわよ、ここ」
執明が陵光を指差している。その先は眉間にある。
陵光は思わず、己の眉間を触った。
「折角の可愛い顔が台無しよ? 街でも褒められ来たんじゃない?」
「ん? 兄々は成都で凄かったよ。女の人にぶわぁって」
「でしょうねえ──容姿は大事だから、その癖直したら?」
執明と監兵が話し合っている。
陵光は抜かされかけた気を戻して、問いを続けた。
「もう良いでしょう。先を聞かせてください」
「あら──まあそうね。実は孟章の居場所も、なんとなくだけど判ってるの」
「真ですか!」
「焦らない。その前に、片付けたい事が有る」
陵光は言葉を止めて、執明を一瞥した。
「承知しましたが、それはどういう」
「もっと西に行って、山神の存在を確かめたいのよ。だけど」
「だけど、何ですか」
「山海经典。知ってる?」
「いえ、存じていませんが」
「そう。まあ、色々載ってる書物だと思って。で、それに山水の名が記してあるんだけどね。聞いたことの有るものばかりなの」
陵光はまさか、と手を拍ちたくなった。だが、思い止まった。
山水について云うのであれば、水軍を統括する執明の方が詳しいはずである。陵光の本分は礼儀であって、まだ執明と同じ理解には至っていない。
故に、尋ねた。
「では、辿れば良いのですか」
「そうも行かない」
「なれば、聞かせてください」
「位置と距離が無茶苦茶。だから山海经典だけじゃ矩にならない」
「不可解ですね」
「だけど。取り敢えず私たちも、距離と位置は判るじゃない? それを仮に矩とするの」
「起点が定まっていませんよ」
「それは水で、何とかなる」
執明は言い終わった後、陵光に向かって
──どう?
と、問うて来ている。
陵光は山神とは聞いたことが無い。だが、帰天の活路を開くためなら、やらぬよりやるべきである。
そういえば、と思った。
「何故、山海──经典が重要になりえるのですか。山神との関係が?」
「大在り。山の位置が判らないと、山神の座も定まらない」
そういえば、そうか。陵光も知っていたはずだった。だが気付けなかった辺りに、己はかなり鈍っていたのだと初めて気が付いた。
「どしたん兄々?」
監兵の声である。
「すまない、これからを考えていた。ところで執明殿」
「何?」
「そこまで、この地の事柄をご存じなのは──」
「まあ、私なりにやってた、ってこと。じゃあ一緒に頑張りましょうね?」
執明が両手を広げている。陵光は触れないように誤魔化しつつ、発つまでの些かな時間、外で空気を吸っていた。
そして、车は北に向かっている。曇って日が見付からぬ時でも風景で察せるほど、陵光は土地に慣れてきていた。
车の内で、執明が口を開いた。
「あなたたち、服は?」
「あったけど戦いで弊れた」
食い気味に、監兵が答えている。
「じゃあ、買わないとね?」
執明は監兵に向いていた。小鏡で確認していた陵光は釘を刺した。
「執明殿、監兵にはくれぐれも」
「変なの、は買わないわよ」
たぶん、執明の言った通りにはならない。陵光には勘がはたらいている。しかし止めるのにも苦労はする。放っておくのが良いのだろう。
「雨瓔、我说啊……」
馭の男が再び声を上げた。疲労しているのか、先よりも枯れて聞こえた。
「他是陵光、她是監兵。好了吧」
「──嗯」
男はまた、黙ってしまった。妙な沈黙が狭い間に漂いかけている。
陵光は後ろを気にした。執明が腰の辺りから、何か取り出していた。沈黙を破ろうとして
「執明殿は手机を使えるのですか」
と、その場凌ぎの言葉を吐いた。




