陵光と監兵が休んでいたのは、青龙湖と呼ばれる大池の周りだった。
成都に着いて爾後、青龙湖に設えられた林園の中を、居処に困れば使っていたのである。出て西行せば成都の中心、街は格段に雑多となっていく。
「いいなあ」
「銭が無い。我慢しろ」
陵光の言葉に、監兵はふてている。成都を歩いていると目移りがして、監兵の持つ稚さでは堪忍し難いらしい。
目の向きと体の運び。元が戦神だから、矢鱈に機敏である。人が多い時には動き過ぎないように、監兵の腕を持って掣いてもいた。
監兵の肌は陵光からしてみれば、少し冷たい。
「ここは何かな──」
陵光は監兵を掣いたまま、独りで言ちた。
先には大きな方形の建屋。掲げられた語の後端を睹れば、馆という字を見付けた。たしかこの字の左側は、食の字を崩したものだったと記憶している。
ならば館か。陵光は、公の物という意義を感じ取った。
「気になる?」
「こういった物はな」
「──つまんそうだけどな」
監兵にとってはそうだ。少なくとも、この館は煌びやかでは無い。何に陵光が興味したのかと云えば、こういった建屋のある理由や意図であった。
──どうせであれば天で使えないか
そんな気分である。そして、その気分が出たのは恐らく、今日は行楽すると断じたからでもあった。
「監兵」
「ん?」
「いや」
少し気晴らしになった、と言うべきだったのか。
「いいんだよ」
言わなかったはずだが、監兵はそう返してきた。
また、西へ行く。
少しずつ、植わる木の量が多くなった。成都を南北に分断する流れの川を渡れば、並ぶ楼閣がややも小さくなる。
この変わり身が陵光には、天の城の内城と外城に重なった。
監兵の好奇心は未だ、無尽蔵である。
「おお──」
空を見上げている。白く大きな、鉄の翼がある。
「あれには人が乗ってるんだよね?」
「そうだったか」
「そだよ。こわいね」
まあ、そういうものだろう。陵光には特に感慨がある訳では無かった。空は車駕に乗って徙るものではなく、己で飛ぶものだった。そうやって考えるのなら、監兵と陵光とでは、空とは違うものだ。
「飛ぶのがか、墜ちるのがか」
陵光は訊いてみた。
監兵の答えは簡単で
「飛ぶのがいやだ」
というものであった。
まだ昼である。日は高いが、少しずつ傾いていた。夕から夜に向けて、また身を留められそうな場所を探しておきたかった。
陵光は監兵に連れられるまま歩いて、鉄の翼が寄る宿駅の袂に居る。
土地は開けがちだが、休もうと思って休める処は少ないようだった。これなら、近くの川を渡ってもう少し北か、通り過ぎて更に西に行くのが良いか、どちらかであろう。
「もう少し」
監兵は離れたがらない。
「夜の事もある。いつまでも留まれない」
「んん──」
拗ねたか、と陵光は思った。張られた網に取り付いている。そこまでの執着を投げる相手かと、陵光は呆れかけた。
呼んで、引き剝がそう。弱く火を纏って触れれば良い。仕方が無いとした陵光は、監兵の腰の辺りを、一瞥した。
──違うな
と、思った。腰を丸めている。
「監兵、何が居る」
「羽、毛。だけど多い」
「臭いだな? 多い。どれくらいだ」
「わからない。臭いがまじって──」
そこまでか、と言いたくなる。監兵の鼻で何が居るのか判別が付かないとは、特に近頃では見聞きしたことが無い。
「すぐに行こう。備えろ」
陵光は甲に着替えることも無く走り始めた。監兵もすぐに追いついて、陵光の前へ入った。
路を辿り、人の集い。周りを察るに、この宿駅の取次ぎをしている府らしかった。少し高くに影が一塊、翻りながら飛んでいる。
群れだろう。怪の気もある。陵光は空を踏む形を以て飛び、前に駆ける監兵を遮った。
「どいて」
「まだだ。確と視ろ」
陵光には重要である。いま身に着けているのは薄い衫くらいなもので、戦装束では無いのだ。
監兵の手には早くも鈎爪が顕れている。苛立ちに少し、目の色が変わっていた。
「力尽くなら良いぞ」
陵光が火を露わにした。足元の路装が溶けかけている。
監兵は本能で弱みを感じ、戦火照を冷ましていった。
「少し待て」
陵光は監兵の前に立ったまま、周囲を見渡した。
上、見えてはないが人の乗る鉄の翼。下、どよめく民衆。左右を瞰れば、離れていく獣怪が居た。
──巣窟か
譬えるのなら此れが、いちばん相応しい言葉ではないか。
監兵を振り返る。
「どう?」
「これなら、甲は後だ」
「あたしじゃん!」
「解っている。やろう」
陵光はすぐに左手へ剣を顕した。手を招いて監兵へ、離れないように伝える。
監兵が追蹤する。空に翻っているだけの羽怪を後にして、宿駅の中を手早く窓から覗いた。
迷いが生じた。
「監兵、中を任せる」
「なんで!」
「禺猿が居る、内外共に疎かにはできない」
陵光は一際大きな窓を見付けると、剣で焼き切った。できた穴を指し示す。
監兵は身を丸く飛んで、府の中へと突っ込んだ。
「さて──」
陵光は空を睹た。地を瞰た。先に離れていった獣怪が、再び集ってきている。気を惹かなければならない。
剣を縦にして、火焔を熾す。民衆や惰弱な怪は散り、より野蛮な怪だけが残る。
火焔が、塊となった羽怪の標識となったか。いちど弧を描いて、陵光へ頭の先を向けてきた。
焔を纏った剣を横に薙ぐ。それだけで先頭の数十が灼かれた。それでも消えた焔の陰を、続く羽怪が潜り抜けてくる。
陵光の衫を、ひとつの喙が破った。
「ん──」
陵光の肌に当たった寸時、怪の喙は溶けた。そのせいで衫のT恤も、前が燃えた。
羽怪が続々と襲う。
目に捉えると、あんがい色彩に豊かだと気付いた。黒く見えたのは多分、色に豊か過ぎて潰れていたのだ。胴も、丸から細きまで多種であった。
人の首を持つ羽怪が、陵光の顔へと噛もうとしてくる。
陵光は右手で掴み、そのまま剣を振るい続けた。右手の元から締まった喉が鳴る。それを聞きながらだった。
吠声、横、狗の様なもの、白色の豪。少し遠くから筋の隆々とした獣怪が来る。斑な大猫じみたものと、兕牛。
──往なせるか
陵光は羽怪を諦めて、獣怪へ手間を取った。
俊敏な狗と豪は剣に地を這わせて斬り、力の在る斑猫と兕牛は縦から、頭蓋の頂点を割った。剣を振るたびに増える骸、往来は叫喚で沸いている。
このまま抑えられる確証が無い。ごく僅かな隙を使って、府の中を竊かに見る。
五体満足の監兵である。
「よし」
陵光は腕を振るい続けた。先に掴んだ人面鳥を斑猫に投擲し、気を逸らしてから斬った。角を向けてきた兕牛も、その角を落とすと混乱して、逃げていく。
「まだまだ!」
「出るな監兵!」
監兵の声、陵光は戻れと言おうとしたが、姿を見た時には既に、羽怪に囲まれていた。
「ええい」
夹克が邪魔だった。陵光は脱ぎ捨てて上裸となると、監兵の囲まれた処へと空を踏んだ。
中に監兵が八方から啄まれている。
羽は火、監兵は金。陵光は監兵の体を己で隠すと、大きく一閃した。
千々に羽怪が転がっていく。もう少しで視界が晴れようか。
「ぬうあ!」
陵光は力を籠め、火焔を大きくして十字に斬った。
羽怪が散る。気が抜けるほど静かになった。
「監兵」
「え」
「──どうなった」
「人が少し──」
「禺らは夷したか」
「うん」
いつの間にか夜だった、熾した火のせいで判らなかった。陵光の周りは路面が幾つか裂け、倒れている者もいる。
「苦労したな」
「ううん」
羽怪が逃げた先で、巨大に唸る音が鳴っている。近付いて、宿駅の府の向こうに雷鳴が在った。
雷鳴の素地なぞ、何処にも無い。
陵光は瞑目して、蔓延した気を吸い、吐いた。
「あれ、兄々? どこいくの?」
「少し待て。監兵の衫が弊れているだろう」
「だいじょぶ」
「何がだ。余り肌を出すな、これを羽織れ」
陵光は先に脱ぎ捨てていた夹克を手に取り、監兵の肩口に掛けた。