張之章「成都に巫の名を求め、二柱は衢を縦横す」 三話
女衆には夜の三更(夜を五等分にして三限目)まで付き合った。そのせいで陵光は気を倦んだまま、監兵を連れ合いとせねばならなくなった。
ただこの倦みは、決して空虚なものでは無い。雨瓔という名を、知れたのである。
あの後に女衆の内の黒髪から、紙に字面や場所も記して貰った。
次に陵光が知るべきは、雨瓔という名をどのように辿るのか、ということである。少なくとも成都では、珍奇な音韻も含めて、多少は名が知れているらしい。
見た時の
──執明に似すぎている
という感覚も、監兵に確かめていた。
監兵も同様に、似ていると言った。
「でもさあ、兄々」
「──ん、なんだ」
「疲れてるね」
「そうか。気にするな」
「まあ、いいや。執明の姉々、というか雨瓔? ちがったね」
陵光は監兵を見ずに、何度か小さい頷きをした。
確かに、その通りだった。陵光が知る執明は、博識かつ貞淑を持った、相将何れも熟せそうな風格があった。確か異形と対した時も、水軍を率いていなかったか。
記憶を重ねてみると、あの雨瓔という女の姿は些か、人に近すぎるし巫覡に比い。陵光の覚えている姿には合わないのだ。
監兵を見た。そういえば監兵も、老女に匿われている時はそのようであった。
「兄々? これからは?」
「手机が使えぬのなら、あの女衆の如くはできまい。网吧という処にしても──」
「ん?」
陵光は体験から、ああいう場は頼りづらい、と言おうとしたが
──なら他にどうしようか
という考えが先に来て、言葉が出てこなくなった。
監兵に顔を覗きこまれている。目が合って、背から甲を収めた嚢を下ろしていないと気が付いた。
「とにかく、今日はもう動かん。夜が明けてからまた、歩こう」
「うん、うん」
監兵は嬉しさを隠していない。よほど楽しかったのだ、ということだけは陵光にも分かった。
烏の啼声が通る。地の端が朱色となる。
夜が明けた。
陵光が額に杖を突き続ける横、監兵の寝息。まだ陵光の頭の中は、いまいち判別をしない。手掛かりと思惟が少ないのだ。
空に群青が足されてくると、監兵も自然と目を醒ました。
「いつも同じだな」
陵光はふと、そんなことを言った。
「朝に起きれるもんね。兄々はよく寝ないね」
「ああ」
空返事をした。陵光は役を与えられてからこの方、職務を怠けなかった。書の閲覧も保安も、戦も、そして白虎から任せられた監兵への教導も。
「やることが多い」
陵光は結論として、そうやって監兵に伝えた。
「休まないと死んじゃうらしいよ」
「そんなこと、誰に聞いた」
「婆から」
「厨の老女か」
「うん」
そうか、と陵光は返した。
ただ、視ていれば判る。神と人では違うのだ。天の巡回を常に見張らねばならない、という理がある。だから、鵜吞みにはしない。
「監兵、もう発てるか」
「いいよ」
「なら行こう」
嚢を再び背にすると、成都市街を探りに動いた。
人は衆い。まだ冬らしいが、人々は裘を着けるとか、逆に寒いにも拘らずに肌を露出しているとか、千差万別である。
陵光にはむしろ、それが個を覆い匿しているようにも思えた。
監兵が横に蹤く。往来が好奇の目を向けてくる。それでも昨晩の活気を浴びていると、かなり沈静されていた。
天にも朝と夜で、別になるような者は居る。
陵光は左右を眄た。周りの目の色、人馴れしているような顔が良い。こちらも臆面も無く睹ているのならなお良い。これから訊く事があるのに、逃げられては元も子も無いのだ。女が良いのか男が良いのかも、多少は違うだろう。
向こう、頬の丸い男。黒いT恤。目印にして、一直線に寄った。
「失礼します」
「嗯?」
男の腕が少し縮まった。その程度の警戒はされるだろうとも、陵光は解っていた。
「雨瓔」
「啊? 雨瓔?」
「你知道吗?」
率直に、雨瓔という女の名を尋ねてみた。
男の顔をちょっと視る。顔が徐々に変わって、多少の驚きか興味が湧いた様だった。
握られた手机、陵光は表を見せてくると思いきや、男は何方かと謂えば舌口をよく動かした。何度か同意を求められたが、雨瓔という女の事を識りたい陵光にとっては、流すしかない。
その内に、男の貌が面白くないと言い始めた。
探しているのだ。陵光は身振りで伝えようとしたが、男はどこか魯い。
結局、何も解らなかった。
「兄々、無理してない?」
「していない」
「いつもだと、もっとはっきりしてたけどなぁ」
単純に拙かっただけだ。やり方は決まっているのだから、何も掴めない内は、それに則ってやれば良い。
陵光は次に尋ねられそうな標識を求めて、また歩を進め始めた。
街を歩くと、たいてい何処になにが集まるのかは掴めてくる。女の肖像というのは、香や服飾の場に多く掲げられるようだった。
陵光は、無知なまま男へ言葉したのが拙かったと考えて、そういう店舗の前を順々と巡っていった。
──もしも雨瓔という名が膾炙しているのなら
などと、思惑したのもある。
違うようにも、同じようにも見える女達。ひとつひとつを見比べて、執明に似た顔を探していく。時に訝しまれたが、陵光は恭しくして凌いだ。
「判らんな──」
「なにが?」
女の顔、そのものが判らないのでは無い。それぞれに化粧が濃くも薄くもなる。果たして同者なのか、或いは似せているのか。そこである。少なくとも、識り得る礼儀に従った胡粉や紅の塗り方は無い。
執明らしい、紫がちに光る髪で探そうともしたが、この地の人は髪を染め上げもするらしかった。
絶対に出さない、舌打ちが出た。
「兄々」
「どうした」
「恐い」
陵光はややも僂がっていた背筋を伸ばして、元の整った立ち姿に戻した。
深く細く、息を吐く。
──どういう留まり方をしようか
陵光の頭は既に、そこへ回っていた。香や服飾の店舗を巡って、もういちど夜を迎えている。
監兵。浮かせた足を振っている。
「休める場を探そう」
陵光は言った。
「そだね、いこ」
監兵は陵光の言葉に、少し顔を和らげていた。
また、未明である。
休んでいる最中に空を俯瞰してみると、帯鈎が如く並んだ三星の東、大きな星がひとつ色付いていた。
光の明滅の仕方に、陵光は嫌悪した。天が変異してないかという焦燥が、理屈以外の所で掻き立てられるのだ。
監兵は、そういった所は瞰ないのだろうか。
陵光が目を下に遣ると、体を丸めた監兵が長椅子の上で、だらしなく口を開けている。
「臥すにしても」
そう言いかけて、止めた。
監兵は起きたらしい。陵光は楼閣の頂上を眺めている。また、一晩中を考え続けていた。
──動くのが良いのか
そういう問いを、陵光は反復した。
前後不便であるのなら、滞留は極めて風通しが悪い。今に必要なのは、また流路を通すことである。老女が言っていた西安などは、第一の候補ではないか。
陵光の目線は、北側に向いている。
「いく?」
「成都では、もう採れ無いだろうからな」
監兵は弱く唸った。
そういえば昨日、成都を巡ると言ったら喜んでいた。まともに街を見せていなかったか。
教壇や戦場では厳しく有るべきだろうが、少し気の抜け、疲れているだろう今ならば、息抜きをさせるのも良いのだろう。
早く還りたくとも、倦み過ぎて動けなくなれば、最なる忌に嵌る。これは避けたい。
「監兵。動き通しも悪い、すこし成都を見よう」
「いいの!?」
「良い。次に向かう地に慣らすにも役に立つだろう。急いては転倒するのだ」
「うん」
「共に。前のような混乱は起こしたくない」
陵光は置いていた嚢を手に取った。それぞれに準備をしながら、監兵の
──行きたい
に任せて、成都の市街を縦横するのだと決めた。




