なんとかして、紫微垣に向かわなければならない。
陵光は焦燥に駆られながらも、己の書棚から星官圖を引き出し、開いた図の上に矩を当てて距離を測っていた。
己が居るのは軫宿である。そこから紫微垣の勾陳に向かうまでの凡そは、これで測れた。
飛ぶことができるのだ。そうすれば、歩いて行く者どもよりも早く辿り着くことができるだろう。
そこまで考えてから、思い付きを否とするように、別の考えが浮かんだ。
軫宿と紫微垣との間には太微垣がある。
太微垣は謂わば、法を司る官吏たちの居住地であり、かつ執政機関を備えた行政地区である。
しかしながら、通常は清廉な空気が流れているはずの太微垣は今や、怪どもの巣窟であるという。
逐一に斥候を奔らせ、報せを受け取ってはいるが、持ち帰ってくる情報の殆どが、今の混沌ぶりを現していた。
太微垣には虎賁(帝の直属兵)や常陳(宮中を守る軍)も詰め寄せていたはずである。彼らが敵わなかったということは、怪どもは余程の強勢を持っているらしい。
最短で行くとなれば、上空を突っ切っていかねばならない。
だが、もしも目を付けられたなら、どのような手段を以て狙ってくるのか、想像が付き辛い。
中には空を飛ぶものもいる。そういった情報を斥候からは聞き受けている。地を這うだけならば、いっそ無視しても良い。しかし、何か特異な能を持つ怪が居るなら、相手も潜在意識として用能して来るだろう。
けっきょく矩を星官圖に当てたまま、切歯扼腕して考えるのみなのか。
陵光は頭を抱えもしたが、行かなければどうにもならないと、甘くなっている己の精神に鞭を打って、軫宿の城塞から三、四の武吏のみを連れて飛び出した。
太微垣の上を通れぬのであれば、他の道を通れば良い。
ごく単純な発想ではあったが、しかし己の行く先を悉く阻むのが今の天界である。
何処から怪が湧き、どの様な道で紫微垣の方へと向かっているのか。事がとんと、見当もつかない。
何とか理解の端緒を拓こうとはしている。だが、余りにも怪が方々(ほうぼう)から湧きあがり、蔓延し過ぎていて、斥候を遣わせても全く、足りていないのである。
故に、事象がはっきりと見えているはずなのに煙に巻かれているという、頓狂な状態に陥っている。
兎角、用心を重ねながら、己の解りやすいように道を選んで進んでいくしかない。
そこで陵光は、鬼宿まで行き、かつ紫微垣を目指すという道を選んだ。
鬼宿に行くまでの、翼宿、張宿、星宿、柳宿は己の管轄下に置いてある城塞である。
その城塞群からの羽檄(急報)というものは今のところ届いていない。
怪どもも何故か一路、紫微垣に向けてのみ行軍しているのだという。それは巣穴に帰る蟻のような、蝟集であるとも謂う。
それが正しいのであれば、一気呵成に攻め寄せられるよりかは、これらの城塞は保たれてはいないか。
思索を巡らせながら、柳宿までの道のりを急行した。
道中、怪は群れを為して、続々と紫微垣の方角へと向かっているのが見えた。
不気味なほどである。まるで陵光らの姿が見えていないかのように、ただ向かうべき方角のみを見て行進をしている。
その光景に瞠目していたのは、陵光だけではない。
陵光の従者である武吏どもも皆、どういうことだと言って、陵光に此の現象の所以を質してきた。
陵光も前例が無いことだけに、解らぬ、としか答えることができない。
これまでの怪、或いは悪事を為そうという凶神どもは、なまじっか知能が有るだけに、其々の塞を陥すことに力を割いていた。
今度の怪は違う。土地という概念を理解する知能が、全く無いようだった。
そのぶん数は桁違いである。襲われれば道にある関などの類はひと堪りも無いだろうが、しかしながら怪の行動を阻害しないものならば、気に留めることすらしない。
どうこうと理屈を捏ねるより、これを生かさないことは無い。
道中で矛を交えることをしないのであれば、その分だけ紫微垣に辿り着くのも早い。
勾陳までは、まだ遠い。この道を如何に、早く抜けられるのかが勝負なのだ。
その為にはまず、初めの通り柳宿の先にある鬼宿に入るべきであった。
それでも、ここまでを飛びに飛んできた。
一日に千里を行き、各宿で怪の動向を探りながら、策を練りつつの行程である。
従者のことも考えると、いずれは何処かで休みを入れなければ、着いた時に即座に動けなくなる。
己は全く以て平気だが、周りを察れば疲弊の感は克明であった。
ここは焦る気持ちを抑え、紫微垣の防衛能力を信頼して、敢えてでも休まねばなるまい。
一昼夜、柳宿で体を休めさせた。
己はまだ拮かねばならぬ、と昏くなってからは燭台に火を灯して、今後の動向を読み切ろうとしていた。
四更(一夜を五等分した内の四つ目の時間区分)に至って、城門が開く音がした。
まさか今の戦況に恐れを為した者が勝手に開城したのか。
そう勘繰ったが、すぐさま門の閉じる音が鳴った時、杞憂であると解った。
暫くすると、陵光の元に慌ただしく、兵が単身駆け込んできた。
「陵光様、陵光様、大変です!」
そう言った兵は陵光の前に跪いて、事の次第を話し始めた。
鬼宿の城が襲われ、陥落するかしまいかの狭間に在るのだという。
なんだ、話が違うではないかと、場にいる陵光と其の配下は皆が思った。
怪どもは紫微垣に向かって行進しているのではなかったか。なぜ今になって、いきなり鬼宿に踵を返してきたのか。
惑乱させようとする動きの根本は、果たして彼らの本能にあるのか、それとも戦の機微を読もうとする、将帥の類が唐突に生えてきたのか。
兎に角、陵光を始め天界の神々は後手に回っている。
連携すらも途切れている以上、逐次の情報を基に窮している場に向かって対処を施す他に手立てが無い。
陵光は軫宿から引き連れてきた武吏に命じ、柳宿の兵の半数を己の麾下として引き入れて、鬼宿の方角へと進発した。
渺茫とは正しくこの事を云うと、陵光は鬼宿の辺りに着いた時に思った。
怪の群れが止め処なく続き、遥か彼方へ姿が幽かになる程、広がっている。
これほどの大群は、嘗て見たことが無い。
息を吞んだ。
横にいる武吏の一が
「これに突っ込んでいけば、玉砕しますぞ!」
と、声を荒らげた。
天に居て、天を守護する者である以上、死という下天の概念を恐れることは無い。
それでも尚、身が幾つ在っても足りないという絶望を、抱かせる光景である。
陵光はしかし、身を奮わせた。
大群の中にぽつりと建つ鬼宿の城を指差し、我らはあの城を援けねばならぬ、と喊乎した。
武吏は驚嘆した。本当に行くのかという気分が、辺りを包み込んでいる。
行くのだ、と言った。
陵光は己の精気を練って雌雄剣を為し上げると、目を瞋らせて敵中に飛び立った。
陵光とは実の所、武吏では無い。
天界の図書を調べ、瑞祥や凶兆を取り上げて報告するような、格の持ち主である。
要は文吏であった。内に籠って肌も皙いことが誇りになるような者が、ここは攻むべし退いてはならぬと、存外の勇を出した。
この言を聞き逃して、武吏の名折れとならぬことは無い。今の奇抜な風景を、己の力とせずして何と為すのか。
供回りの武吏は意気軒昂となった。
そして釣られて、柳宿から引き連れてきた兵も皆、大喊声を揚げた。