第二部(5)
おはよう。
おはよう。
いってきます。
いってらっしゃい。
ただいま。
おかえり。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
車窓から眺める景色のように、当たり前に毎日が過ぎていく。
気を失った時でさえ、目を覚ますと、ごく普通の日常が始まった。
あれから数日が経っていた。けれど、同じ日々の繰り返しで、もはや正確な日付さえ分からない。
淳一は何事もなかったかのように、相も変わらず美しく柔らかな笑顔を絶やさずにいる。針のむしろに座らされている気分だ。否、針のむしろではない。ここは、牢獄だ。眩しい光の牢獄。
夕食を終えると、いつものように休息時間という名の拷問が訪れた。
ベッドの上で膝を抱えてうずくまる睦子を横目に、淳一は、椅子に座って本を読んでいる。何を読んでいるのか知らないが、その表情でさえ優しい。
睦子は思い立ち、自身の荷物をまとめることにした。
「どうしたんだい?」
淳一が優しく声を掛けてくる。
睦子はそれを無視し、黙って作業を続けた。
「まだ体調は万全ではないんだ。こんな時間に片付けをしなくても良いだろ?」
重ねての問い掛けに対し、囁くように答える。
「家に帰る」
彼は綺麗に微笑んだ。
「もう遅い時間だよ」
「それでも帰る」
「どうして急にそんなことを」
荷物をまとめる手の上に雫が落ちる。
「ごめん、しばらく離れて暮らそう」
そう言っても彼は食い下がった。
「好きにすれば良い。でも、理由を聞くくらいの詮索は許してくれるよね?」
睦子は淳一のことを睨んだ。
「本当は、わたしと離れて暮らしたいって思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。君と一緒にいたい。愛している」
淳一が優しく微笑み続けている。
睦子は耐え切れずに叫んだ。
「じゃあ、どうしてそんな顔で笑うの!」
そこにあるのは嘘の仮面だった。どうしてずっと気が付かなかったのだろう。初対面の時でさえ作りものと察せられたというのに、いつから淳一が綺麗に微笑み始めたのか思い出すことも出来ない。
しばらくして、淳一は笑顔のまま口を開いた。
「君が望んだからだ」
息が苦しくなる。今すぐ笑うのをやめて欲しいと願う。
「わたしは嘘なんて望んでいない」
「それでも君が笑うことを望んだんだ」
「嘘の笑顔ならいらない」
「望むものを与えたいという気持ちは優しさだ。もはや嘘ではなくなる」
綺麗な笑顔のフィルターを通して発せられる言葉の数々は、どこまでが本心なのか判別することが出来ない。だが、たとえ彼の言うことが真実だったとしても、そんな夢か幻のような優しさなど欲しいとは思わない。
睦子は切実に訴えた。
「違う。本当に欲しいのは……」
「欲しいのは?」
目に溜まった涙が照明の灯りを屈折させ、視界が煌めく。眩しい。それは鋭利な刃物に反射した光のようにキラキラとしている。
「欲しいのは、光」
「輝く未来?」
「違う」
誰もが求める安穏とした生活に興味などない。人々は規範に則ってそれを欲しているだけで、そこに価値はないのだから。
「それなら何が光なんだい?」
「分からない。分からないから教えて」
「難問だ」
「でも教えて。淳一の答えがわたしの答え。淳一はわたしの鏡なの」
「じゃあ、君が分からないなら僕にも分からないよ」
「淳一なら分かるでしょ? この真白な光の下なら何でもお見通しなんだから」
そう言い切った時、淳一の表情に影が差した。
「分からないんだ。いつの間にか、この光を眩しく感じるようになってしまった。あまりに眩しくて、目の前のものも見えない」
その顔は、寂しげだった。口元は未だ綺麗に微笑みを形作ってはいるものの、どことなく、幼い少年を思わせる。
「眩しいの?」
「とても、とても眩しいんだ。目が痛むほど。あれほど欲した光なのに」
淳一は立ち上がって天井を見つめ、更に言葉を紡いだ。
「僕は……何が欲しかったんだろう……」
彼は眩い光を遮ろうとするかのように、両腕を上げ、手を広げた。
その手の影は、まるで蝶のようだった。
二匹の蝶は何かを求め、光の中を彷徨い、はためき、やがて、睦子の首にとまった。
喉が締め上げられていく。
僅かに漏れる呼気を頼りに睦子は呟いた。
「まるで、蝶がとまったみたい」
淳一は目を細め、冷たく微笑んだ。
「詩的だね」
「ねえ、これは幸せ?」
「分からない。君は?」
「苦しい」
「違う。幸せかどうか聞いたんだよ」
「わたしは……」
幸せだ。
見つめることさえ叶わない何もかもを照らす陽射しではなく、影に灯る小さな輝きとして、小さな手に抱かれる。これほどの幸せが他にあるだろうか。
どんなに艶やかに身体を染めようと、白に白を落とすように、黒に黒を落とすように、流れゆく景色の中ではマダラ色に溶けて消えてしまう。その諦めに似た恐怖を、小さな手は、絞め殺してくれている。
自分は選ばれたのだ。自分は選ばれたのだ。ありきたりではない、たった一つの特別なドラマの主人公になれたのだ。幸福だ。
それを祝福するかのように真白な光が降り注いでいる。
真白な光が、広がっていく。
+ + + + +
ええ。確かに、幸せ、と言っていました。
彼女が何を思ってそんなことを言ったのか、僕には分かりません。
あの部屋で、冷たくなった身体と長いこと一緒に過ごしましたが、知りたいという欲求を満たしてくれるものは、何も、得られませんでした。
見定めようとしても、彼女は、もう、動かなかった。
彼女は死んでいた。そうです。僕が殺したのです。
なぜ殺したのか、ですか?
なぜ……
それは、白色灯が眩し過ぎたからです。
白色灯 【了】