9.ふたりの食卓
矢野さんと文子さんに案内されて、離れを出る。そのまま、また母屋に向かう。
いつの間にか、もうすっかり日は落ちていた。けれど、母屋の廊下はとても明るい。そのことに、また驚いてしまう。
廊下の壁、わたしの背丈よりも上のところに、優美な曲線を描くガラスの傘がいくつも取りつけられていた。その中には、こうこうと輝く丸い球が見える。
「これって……電球……ですよね……」
わたしが暮らしていた東藤の屋敷の離れでは、明かりといえば古い石油ランプだけだった。それも千代のおさがりの、ほろが少し欠けたものだ。石油を無駄遣いすると怒られるので、使えるのは日が落ちてからのわずかな時間だけ。
おかげで自然と、早寝早起きが身についた。それはそうとして、夜だというのにこんなに明るい廊下というのは見たことがない。
思わず立ち止まってしまったわたしに、矢野さんがそっと声をかけてくる。
「蝋燭や石油ランプでは、どうしても火の始末に気を使いますから」
そこに、文子さんがうんうんとうなずきながら割り込んでくる。
「廊下のランプにいちいち火をつけたり消したりするのは大変だろうって、晴臣様がそうおっしゃって、電気を通す工事を命じられたんです。ありがたいですよね、ほんと」
ふたりはとてもにこやかに、そう説明してくれた。やはりふたりにとって、晴臣はよい主のようだった。
そのことを誇らしく思いながら、明るい廊下を進んでいく。一階の奥のほうに、食堂があるのだそうだ。
そうかからずに、食堂にたどり着く。そこもまた、とても明るかった。
部屋の中央に置かれた大机、そこにかけられた真っ白なテーブルクロス、並べられた食器。そういったあれこれが、鮮明に見えている。窓の外はすっかり暗くなっているから、その対比が落ち着かない。
矢野さんが椅子を引いて、座るよう勧めてくる。素直に腰を下ろすと、反対側に座った晴臣が無言で会釈してきた。
この大机は細長い形をしていて、わたしと晴臣はちょうど一番遠い端と端に座っているのだ。給仕らしきメイドは何人か室内にいるものの、席についているのはわたしたちだけ。どうにも、不思議な配置だ。
矢野さんと文子さんがそっと食堂を出ていくのと入れ違いに、今度はワゴンを押したメイドたちが食堂に入ってくる。そのまま流れるような動きで、晴臣様とわたしの前に、料理の載った皿をいくつも置いていく。
皿からは、とびきりいい香りが立ち上っていた。またしても鳴りそうになるお腹をなだめながら、ひっそりと困惑する。
この……特大の卵焼きのようなもの。貸本屋でぱらぱらとめくった本に、描かれていたような……オムなんとかとかいう……卵を使っているのは確かなのだけれど、それ以外何も分からない。
その隣の皿は、たぶんキャベツを大まかに切って何かで和えたもの……で合っていると思う。
大机の上には、さらに小さなかごも置かれていた。その中には、きつね色の焦げ目がついたパンが二枚、きれいに並んで収められている。
これは、洋食だ。実物を目にするのは、初めてだ。当然ながら、食べたことなんてない。
東藤は節制をよしとする家だったから、食事も質素だった。普段食べていたものは麦のまざったご飯と具の少ない汁物に、あとは漬物、そんなものばかりだった。たまに、焼いた魚がついてくることもあるくらいで。
もっとも、吉野と千代はもっと贅沢をしていたらしい。以前、千代が自慢しにきたから、知っている。
それはともかく、早くこれらの料理を食べてみたい。しかしナイフとフォークの使い方が分からない。知っているのは、フォークで刺してナイフで切るらしい、ということだけ。
でも、このままもたもたしていたら、またお腹が鳴ってしまう。さすがにそれは、恥ずかしい。
意を決してナイフとフォークに手を伸ばしかけたそのとき、晴臣の声がした。
「……もしかして、ナイフとフォークの使い方を知らないのか」
「はい。洋食を口にしたことはないので」
正直に答えたら、彼は一瞬考えこむような顔をした。それから突然立ち上がり、わたしの隣の席までやってくる。彼が視線で合図をすると、メイドたちが彼の分の皿を運び直し始めた。
「だったら、僕が教えよう。こういうものは、手本があるほうが覚えやすくていい」
彼は当主らしく落ち着いた雰囲気を崩さなかったけれど、青眼鏡の下の目は嬉しそうにきらめいていた。
「……ありがとうございます」
笑顔で答えたら、晴臣は幸せそうにきゅっと目を細めた。
それを見たメイドたちが、驚きを顔に浮かべている。たぶん彼女たちも、婚約者うんぬんの噂を知っているのだろう。礼儀正しい態度を保とうとしているものの、興味が隠しきれていない。
晴臣と話すたびこうでは、少々やり辛い。あの噂、あとで晴臣に頼んで、訂正してもらったほうがいいだろう。
「さて、料理が冷める前にいただこうか」
彼女たちのそんな様子に気づいていないはずはないだろうに、晴臣は悠々とナイフとフォークを手に取っている。そうして、卵焼きもどきをひとかけら切り取った。
「これはオムレツ、オムレットとも言う。卵に乳を混ぜたものを、牛酪で焼いたものだ」
ああ、そういえばこの料理はそんな名だった。作り方までは覚えていなかったけれど、中々おいしそうだ。
……父は牛を飼うことで、一代で財をなした。けれど離れで暮らすわたしの口に、乳やその加工品が入ることはめったになかった。
わくわくしながら、晴臣の動きをまねてオムレツを口に運ぶ。そうして、思わず声を上げそうになった。
食べ慣れたものよりずっと柔らかな卵焼きに、ふわんと甘く濃厚な香りがまといついている。これが牛酪の香りか。普段口にしているどんな料理とも違う、うっとりとするような味だ。
いそいそと、もう一口オムレツを食べる。ああ、やっぱりおいしい。自然と、笑みが大きくなる。
そうしていたら、すぐ近くで笑い声がした。
「……そんなに気に入ったか」
心底嬉しそうな晴臣の声に、はっと我に返る。彼は口調こそ当主の堅苦しいもののままだったけれど、表情が完全にとろけていた。かつての子狐を思わせる、ほんわかとした表情だ。
メイドたちがこぼれんばかりに目を見張っていることからすると、やっぱり彼は普段こんな顔を他人には見せていないらしい。
……婚約者の噂、きちんと消せるのか、心配になってきた……。
「え、ええ! それでは、こちらの皿もいただきますね」
ひとまずこの場の空気を変えようと、明るい声を出してキャベツの皿に手を伸ばした。ところがいざキャベツを食べようとしたところで、手が止まる。
さっきのオムレツは、フォークに乗せて口に運んだ。しかしこのキャベツで同じことをしようとすると、たぶん途中で落としてしまう気がする。真っ白なテーブルクロスを汚すのはしのびない。
となると、フォークで刺せばいいのだろうか。そのまま? それとも切ってから? 何枚くらい?
「ほら、こうやるんだ。フォークで数枚、葉を刺せばいい」
そんなわたしのためらいを見て取ったように、晴臣が優雅な手つきで見本を披露する。ちょっと得意げな態度だ。
「はい、ありがとうございます……」
笑いをこらえつつ、教えられたようにキャベツも食べてみた。
塩と油と酢、それに香辛料のようなもので和えてある。和え物で合っているとは思うけれど、香辛料についてはさっぱり見当がつかない。まあ、おいしいからいいか。
結局それからも、わたしは晴臣にあれこれと世話を焼かれながら、生まれて初めての洋食を平らげたのだった。最後にはプリンまで出てきて、とてもおいしかった。最高の夕食だった。
……メイドたちが、微笑ましくてたまらないという目でわたしたちを見守り続けていたことを除けば。
やっぱり、一刻も早く、あの噂を何とかしないと。
すっかり膨れたお腹を抱え、ひっそりとそう決意したのだった。




