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10.夜の庭を眺めながら

 夕食を終えて、離れの部屋に戻ってくる。とても満たされた気分でぼんやりしていたら、また文子さんがわたしを呼びにきた。


紅子べにこ様、湯の準備ができましたよ」


「湯……でも、まだこんなに早いのに、湯を使っていいの?」


 驚きのあまり、そう尋ねてしまっていた。


 だって東藤とうどうの家では、わたしは他の家族が全員湯を使い終えてからでないと、風呂には入れないのだ。夏はいいとしても、真冬など、すっかり湯が冷めてしまって辛い。


「え、もちろんですよ。紅子様は晴臣はるおみ様の大切な婚約……お客様なんですから」


 そうして、文子さんは得意げに説明を始めてしまった。


 彼女によると、この橘花たちばなの屋敷には、三つも風呂があるのだそうだ。主とその家族が使う風呂、客用の風呂、そして使用人たちが使う風呂。


 今この屋敷に泊まっているのはわたしだけだというのに、惜しみもなく客用の風呂を用意してくれたらしい。


「そういうわけなんで、さっさと行きましょう。今度こそ、あたしが案内しますから」


 文子さんに連れられて足を運んだ客用の風呂は、予想通りとっても豪華な場所だった。


 つくりこそ見慣れた和風のものだけれど、よく手入れされた木の浴槽は、両手足をゆったりと伸ばして入れるくらいに広い。浴槽というより、泉のようだ。


 浴槽に溜められた湯はぴりぴりと肌を刺すほどに熱く、入っているとむずむずする。でもそれが、心地いい。


 熱い湯に浸かってふうと息を吐いていたら、ふと。あることを思い出した。


 あれは前世でのこと。あやかしとの戦いを終えたわたしたちは、山の中で温泉がわいているのを見つけた。とても満たされた気分で、湯に浸かったものだ。


 ああ、またひとつ記憶が戻ってきた。この調子で思い出していけば、いつか前世のやり残しについても思い出せるかな。


 存分に湯を楽しんでから、用意された浴衣に着替え、部屋に戻る。体が温まっているせいで、少し暑い。


 思い立って、奥の障子を開けてみた。その先は、よく手入れされた庭が広がっていた。離れのつくりに合わせているのだろう、伝統的な和風の庭だ。


 奥のほうには池があり、そのほとりには花菖蒲はなしょうぶが咲き乱れている。満月の下で、その姿はとても神秘的に見えた。


 庭の中央にはどっしりとした松がのびのびと枝を伸ばしていて、その後ろには椿の木がたたずんでいる。梅や桜、牡丹なんかの姿も見えるから、この庭は四季折々に様々な顔を見せるのだろう。


 しばらく庭を眺めてから、きょろきょろと辺りを見渡した。誰もいないことを確認して、髪紐で髪を大ざっぱにくくる。


 あらわになった顔や首を、ひやりとした風がなでていく。その心地よさに、自然と笑みが浮かんでいた。


「ああ、夜風が気持ちいい……」


 そのまま縁側に腰を下ろして涼んでいたら、隣の部屋の障子が開いた。続いて、誰かが縁側に出てくる。あわてて赤い左目を隠そうとすると、思いもかけない声がした。


「紅子様」


「えっ、晴臣!?」


 そこに立っていたのは、晴臣だった。どうやら彼も湯上がりらしく、浴衣をゆったりとまとっている。昼間の洋装とはまた雰囲気が違っていたけれど、こちらの姿もよく似合っていた。


 その顔に青眼鏡はなく、空の満月そっくりの金色の目がこちらを見つめている。


 彼は夜の闇の中でもはっきりと分かるほど目をきらめかせて、わたしの隣に座った。そうして、顔を寄せてくる。


「湯上がりの貴女というのも、また麗しいものですね」


「もう、またそんなことを言って……それよりあなた、その格好……」


「似合いませんか?」


「いえ、似合っているわ。ただ、今のわたしたちは年頃の男女なのだし、こんな姿で一緒に縁側にいるのは、その……」


 つとめて意識しないようにしていたけれど、晴臣は魅力的な若い男性だ。昼間のきちんとした身なりならともかく、こんなくつろいだ姿を見せられると、どうしていいか分からない。


「それに、この離れで暮らしているのはあなたひとりだと、そう聞いているし……」


 せめて彼の両親が近くにいれば、また気分も違ったのかもしれないけれど。そう考えたとき、ふと気になった。


「……ところで、あなたの両親は、どうしているの?」


 もしかしたら、聞いてはいけないことなのかもしれない。そろそろと切り出したら、晴臣はあっけらかんとした表情で答えてきた。


「両親ですか? 僕に当主の座を譲ってから、ここぞとばかりに遊び歩いていますよ。今はずっと西のほうで、温泉巡りをしているはずです。時折、旅の記録をつづった手紙が届きますから」


「……『はずです』……?」


「予定も何もない、自由な旅をしてるんです。こないだなんか、気が向いたからといって突然離島に渡り、そこにある霊山にお参りしていたそうですよ」


 晴臣はのんびりと、そう答えてくる。どうやら、親子仲は良好らしい。


 ……しかしどうやら、彼の両親はかなり変わった方々みたいだ……当主らしくかしこまっている晴臣よりも、こちらの表情豊かな晴臣のほうに似ているような気もする……。


 とまどいとうらやましさを感じていたら、彼は今しがた自分が出てきた障子のほうを指し示した。


「ああ、そうだ。忘れる前に説明しておきますね。すぐそこが、僕の部屋です」


 さらりと彼が口にした言葉に、思わず飛び上がる。


「そこの部屋……って、わたしの隣の部屋!?」


 目をぱちぱちさせながら、大あわてで辺りを見回した。わたしにあてがわれた部屋がここで、彼の部屋がそこで、ということは……。


「ねえ、ふすま一枚しかへだてるものがないわ!? そのっ、さすがにそれは、どうかと思うの」


 動揺するわたしとは裏腹に、彼はいたって落ち着き払っていた。


「だからいいんですよ。もしあなたの身に何かあったとしても、真っ先に駆けつけられますから。それに僕が山吹やまぶきだったころは、貴女の枕元で眠っていたでしょう?」


「でもあれは、あなたが子狐だったからで!」


 うっかり声を張り上げてしまい。あわてて口をつぐむ。すると彼は手を伸ばし、わたしの頬にそっと手を当ててきた。


「僕の心は、あのころと何も変わってはいませんよ」


 まっすぐにわたしの顔を見つめ、うっとりとつぶやく。


「こうしてまた、貴女のそばにいられる。ふふっ、幸せだなあ……」


「……照れるわ。見ないで」


「いいえ、見ます」


 たしなめるようにぴしゃりと言っても、彼の表情は変わらない。そっと手を振り払ったら、彼は残念そうに微笑んだ。


「食事のときも、できることならもっとじっくりと貴女を見ていたかった」


「そんなもの、見ていても楽しくもなんともないでしょう」


「いいえ、楽しいです! 貴女はぎこちないながらも懸命に手を動かして……未知の料理を口にするたび、ぱあっと顔が輝いて……そんな貴女に様々なことを教えられるのが、この上なく嬉しくて……」


 彼の口から語られるめちゃくちゃな内容に、思わず頭を抱えてしまう。


「……晴臣、やっぱりあなた、浮かれているでしょう?」


 すると彼は少しも悪びれることなく、堂々と言い切った。


「浮かれもします。ずっと会いたかった貴女が、こうしてここにいてくれるのですから……」


 彼は目を細め、やけに切なげに息を吐く。これはあの子狐なのだと自分に言い聞かせていなかったら、思わず見とれてしまいそうになるくらいに色っぽい表情だ。いや、言い聞かせていてもぐらりときてしまう。


「……そういえば、貴女が僕の婚約者であると、みなはそう噂していたようですね」


 そしてそんな顔のまま、彼は唐突に話を切り替えた。


「あなたも聞いたのね」


「ええ。矢野がこっそり教えてくれました」


 それなら話が早い。さっさと、その噂を否定してもらおう。


 しかし口を開きかけたそのとき、彼はふっと目を伏せた。やけに切なげな表情に、喉元まで出かかった言葉が引っ込んでしまう。


「……矢野は、喜んでいました。僕が貴女を見つけたことを、我がことのように」


 ほんの少し視線をそらして、彼は独り言のようにつぶやく。


「僕は今まで、何度も人として生まれては死に、また生まれ変わっていました。けれど一度も、女性に心奪われたことはないんです。なのでずっと、独り身でした」


 驚くべきことを、彼はまたしてもさらりと口にする。


「今までは、それでもかまわなかったんです。ただ正直な話、今回ばかりは困ったなと思っていました。男爵家の当主ともなれば跡継ぎが必要になりますが、そのためだけにどこぞの女性をめとるなど、まっぴらごめんですから」


 しかしその声音は、少しも困っているようには聞こえなかった。


「だから折を見て、親戚の誰かを跡継ぎに指名しようかと思っていたんです。下手をすればお家騒動になりかねませんが、他に手はありません」


 よく見ると、彼はうっすら苦笑していた。男爵家たる橘花家の未来も、それに伴う人々の混乱も、さほど意に介していないように見える。


「でも、貴女がいてくれれば……」


 そして突然、晴臣はわたしのほうに身を乗り出してきた。


「晴臣、その……近いわ」


 わたしの手をしっかりと握って、彼はさらににじりよってくる。吐息がかかるほど近くに、彼の顔があった。


「ねえ、紅子様」


 かすれた声で、彼はささやく。耳がかっと熱くなるのを感じる。


「噂を、真実にしてしまいませんか」

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