11.彼の願いは
わたしの手を取ったまま晴臣がささやいた言葉に、ぽかんとしてしまう。噂を真実にする……って、まさか。
「あの、それはもしかして……」
「はい。紅子様、どうか僕と婚約してはいただけませんか」
あまりにもまっすぐな言葉に、考えるより先に否定の言葉が飛び出してくる。
「で、でも私は、士族の生まれではあるけれど、家族からは見捨てられていたし……男爵家の嫁としてふさわしいとはいえないわ。あなたの両親が、なんて言うか」
「両親は気にしませんよ。『相手の出自なんてどうでもいい、お前が心から大切に思えるお嬢さんを探しておいで』と普段から言ってくれていますから」
そういえば、彼の両親は変わり者だった。となると、どうやって晴臣を思いとどまらせたものか……。
「それにあなたは、元々わたしの式神で、子狐で、だから」
「さっきも言ったでしょう? 僕の思いは、あのころから変わっていないのだと」
しかし彼は、まるでわたしをなだめるかのような態度で穏やかに言った。
「まだ子狐だったころから、僕は貴女の力になることだけを願っていた。……あのころはあまりに非力でしたが」
そう語る彼の目が、ふっとくもる。満月に黒雲がかかったかのように、その金色がくすんでしまった。
けれどまたすぐに、彼は顔を上げ、澄んだ目でわたしを見つめてくる。
「僕は、貴女を助けたい。ようやく、貴女を守るための力を手にできた。そして、貴女に再会できた」
とても懸命に、必死に、彼は食い下がってくる。その熱意に、たじろいでしまうくらいに。
「どうか、これからはずっと、貴女を守らせてください。……もう、後悔はしたくないんです」
突然のことに何も言えずにいると、彼はまたうつむいて、消え入るような声で続けた。
「あ、ですが、その……もしかして、貴女には既に、思い人がいるのでしょうか……だとしたら、無理強いはしませんが……」
彼はそっと視線だけを上げて、上目遣いにわたしを見た。その切なげなまなざしに、心臓がことんと跳ねるのを感じる。
再会してから、彼はいろんな顔を見せていた。子狐の山吹を思わせる無邪気で礼儀正しい顔、男爵家の当主としての凛とした顔。そして、今見せている乙女のような顔。
その全てが、不思議とわたしの目を引いていた。彼のしぐさのひとつひとつが、気になってしまっていた。そんなことを、今になって自覚する。
少し考えて、そろそろと言葉を紡いだ。
「……いないわ。そもそも男性と親しく話したことすら、ろくにないの」
東藤の屋敷で言葉を交わすのは、千代と吉野と女中たちくらいのものだった。屋敷の外では、できるだけ人と目を合わせないように気をつけていた。
「で、でもね、わたしにとってあなたは、あくまでも小さな山吹だから……婚約だなんだと言っても、いまいち実感がないの」
すると、晴臣がふっと真顔になった。
「本当に、そう思っておられるのですか?」
「ええ」
ためらうことなく答えたとたん、彼がいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「けれど先ほど、『年頃の男女』とおっしゃっておられましたよね。あのときのあわてた様子、かわいらしかったですよ」
「あれは、麗しいとかなんとか、あなたが妙なことを言い出したからよ!」
「でもあなたは、僕のことをひとりの男性として多少は意識してくださった。そういうことでしょう?」
彼の声には、確信めいたものがあった。そしてわたしは、その言葉を否定することができなかった。要するに、図星だった。
どうしようもなくて黙りこくっていたら、彼はにぎりしめたままのわたしの手をそっと持ち上げて、手の甲にそっと唇を落とした。
「なっ!! 何、今の!?」
柔らかな感触に、背筋がぞわりとする。嫌悪感ではないけれど……とにかく、言いようもなくそわそわする。
わたしのそんな反応がおかしかったのか、晴臣はにこりと微笑んだ。
「西洋式の、ちょっとしたあいさつですよ。どうぞこれからよろしくお願いします、との思いをこめてみました」
「……よろしく、って……わたし、話を受けるともなんとも、答えていないのだけれど……」
「駄目なのですか?」
「…………それは……」
口ごもりつつ、考える。
晴臣は、わたしのことを大切にしてくれる。ここでならきっと、わたしは幸せになれる。
それに、かすかに思い出した前世の記憶、あの謎を解くためには、彼の近くにいたほうがいい。そういう意味では、彼の申し出は、願ってもないものなのかもしれない。
けれどそのために、彼の未来を縛ってしまっていいものか。彼はわたしのことを守るのだとやけに意気込んでいるけれど、守るだけなら婚約などする必要はないのだし。
「紅子様、聞いてもらいたいことがあるのです」
迷っているわたしの耳に、晴臣の弱々しい声が忍び寄る。はっと顔を上げると、彼は泣きそうな目で見つめてきた。
「僕は人として何度も生まれ変わりながら、ひたすらに貴女を探し続けていました。貴女の面影だけを胸に抱いて」
わたしの手を握る彼の手に、力がこもる。
「……そうして、ようやく貴女を見つけられたのはいいのですが……それからずっと、胸の高鳴りが収まらないんです」
やけに切なげな目で、晴臣はわたしを見つめてくる。少しあごを引いた上目遣いが、どうしようもなくなまめかしい。
「貴女のそばにいたい。貴女に触れていたい。貴女だけを見つめていたい。そんな言葉ばかりが、頭の中でぐるぐると回っているんです」
まるで口説き文句のような言葉の数々に、かあっと頬が熱くなる。
「これって、恋……で合っていますよね?」
「わ、わたしに聞かれても、分からないから!」
「ふふ、照れている貴女もたいそうかわいらしい」
「照れているのではなくて、とまどっているだけよ!」
あまりのことに、声が上ずってしまう。晴臣がまた、くすりと笑った。
「そういったわけですので、貴女に断られてしまったら、僕は失恋してしまうんです。どうか、僕を助けると思って……その、まずは形だけでも、いいので……」
「だったら……その……ひとまず、よろしく……」
ぼそぼそとつぶやいたとたん、彼がぱあっと顔を輝かせた。感嘆のため息をついて、今度は両手でわたしの手をしっかりと握った。
「それでは、さっそく準備に取りかかりましょう」
「準備? 何の?」
「もちろん、貴女のご実家にごあいさつに行くんですよ」
すると晴臣は、にっこりと笑ってそう言った。……目が笑っていない。
「ええと、その、手紙のひとつも出しておけば、それで済むから……」
わたしが東藤の家でどんな立場にあるかについては、まだ晴臣には話していない。彼に再会してからいろんなことがあり過ぎて、話す機会を見つけられずにいたのだ。
けれどわたしの言葉の端々から、彼はおおよその事情をかぎとっていたのだろう。彼の笑みは、さっきまでのふわふわした笑みとは違う、ずっと剣呑なものだった。
「ねえ、何かたくらんでるの?」
「いいえ、そのままの意味ですよ?」
明らかに何かたくらんでいる顔で、彼は悠々とそう言ってのけた。
「準備って、何をするつもりなの?」
「内緒です」
いくら聞いても、晴臣は教えてくれなかった。ただ満足そうな顔で笑うばかりで。
そして、次の日の朝。
「みなに報告しておきたいことがある。僕は彼女と、正式に婚約することにした」
晴臣は使用人たち全員を集めて、晴れやかにそう宣言したのだった。矢野さんはにこにこしていて、文子さんは飛び跳ねんばかりに喜んでいた。
他の使用人たちも、ほっとしたように微笑んでいた。その様子からすると、どうやらみんな、晴臣の嫁取りについてずっと心配していたようだった。
……ただ、わたしの素性について、晴臣はみんなに明かさなかった。それなのに、みんなはわたしをあっさりと受け入れている。
この屋敷、当主とその両親だけでなく、使用人たちもちょっと変わっている……というか、度胸があるのかもしれない。
そんなことをこっそりと思いながら、晴臣の隣にじっとたたずむ。自然と、口元に笑みが浮かぶのを感じていた。




