8.愉快な使用人たち
泥棒でも入ったのかと言いたくなるような切羽詰まった声に、文字通り飛び上がる。
ばっと立ち上がって身構えたわたしの目の前で、すぱんとふすまが勢いよく開いた。その向こうの廊下に、若いメイドが立っている。
おそらくわたしより少し年上だろう彼女は、緊張に顔をこわばらせつつも、なぜか堂々と仁王立ちしていた。しかしこちらに向けた視線には、まぎれもない興味の色がある。
彼女は長い黒髪を頭の高いところで結わえ、背中に垂らしている。メイドのお仕着せらしい黒いワンピースと白いエプロンが、はっきりした目鼻立ちの彼女にはよく似合っていた。
……あら、この人って確か……そうだ、晴臣の仕事部屋の前で、わたしをまじまじと見ていたあのメイドだ。
「そ、その! 夕食の支度が整いました! 食堂に案内しますので、どうぞこちらへ」
ぎくしゃくした動きで会釈しながら、彼女はやはり大声で言う。しかし次の瞬間、その顔がはっとしたように凍りついた。
「あっ、しまった! こっちでは、膝をつかないといけないんでした!」
「あ、あの……?」
どうにも様子のおかしい彼女に、おそるおそる声をかける。すると彼女はわたしに向かって、まくしたてるように話し始めた。立ったまま。
「ほら、ここって和室ですから、ふすまを開けるときは膝をつきなさいって、あたしいっつも矢野のおっちゃんに叱られてて。でも、つい忘れちゃうんですよね」
矢野のおっちゃんって、まさか……矢野さんのことか。使用人同士でそんな感じの呼び方をしているのはまだいいとしても、それをそのまま客の前で口にしてもいいのだろうか。
そもそも、彼女のこの態度は……メイドって、こういうものだったかな。
「いやでも、これにも理由があるんですよ! この離れで暮らしてるのって、晴臣様おひとりだけなんです。そしていつも晴臣様にお声をかけにいくのは、あたしの仕事じゃなかったんで、ついうっかり」
わたしが呆然としていることに気づいたのか、彼女はそんな言い訳を繰り出してきた。ある意味面白くはあるけれど、こんなにあれこれと内情を喋ってしまって、彼女があとで矢野さんに叱られたりしないかと心配になってくる。
「うっかり、ですか……」
「はい、そうなんですよ。で、このことがばれたら、さらに叱られちゃうんで……」
そこまで言ったところで、彼女はちらりと流し目をよこしてくる。打って変わって弱々しい声で、そっとささやいてきた。
「……その、できれば今のことは、内緒にしてもらえると嬉しいな、って……」
「え、ええ、もちろんです」
元より、告げ口するつもりはなかった。けれど彼女の勢いに圧倒されてしまって、ろくに言葉を返せない。
わたしの返事を聞いた彼女は一転して、ぱあっと顔を輝かせる。
「ありがとうございます、紅子様! 優しいんですね! あっ、いけない、忘れてた、自己紹介!」
表情も喋る内容も、くるくるとよく変わる。本当に、変わった女性だ。
「あたしは坂下文子、十八歳です。矢野のおっちゃんの奥さんの遠縁で、そのつてをたどってこのお屋敷で働かせてもらっています」
軽やかにそう言って、文子さんはひときわ大きな笑みを浮かべた。
「これからよろしくお願いしますね、紅子様! 晴臣様が婚約者を連れ帰ってきたって聞いたから、どんな人だろうって気になってたんですけど……いい人で、本当によかった!」
「えっ、あの、その」
今、聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。まだ何か言おうとしている文子さんを手で制しつつ、深呼吸して考えをまとめる。
「……わたしが、晴臣様の婚約者?」
「はい、そうですね」
「……その話、いったいどこから出てきたのですか?」
「え? このお屋敷の使用人のみんなですよ。女性に興味がなかった晴臣様が、見たこともないほど幸せそうな顔で女性の手を引いて戻られた、あれは恋人か、婚約者に違いないって」
「……話が、飛躍しているのですが……」
あまりのことに額を押さえてうめいたら、文子さんはきょとんとした顔で首をかしげてしまった。
「あれ、違うんですか? あたしも、紅子様と晴臣様はすっごくお似合いだって、そう思いますけど」
「お似合い、って……でも、わたしのこの身なりは、晴臣様とはまるで釣り合わないと思います」
わたしがまとっているのは、母の形見の古い着物だ。丁寧につくろってはいるものの、あちこちがすり切れ、傷んでいることは一目瞭然だった。正直、この豪華な屋敷の中では浮いている。
「紅子様は気品にあふれた、清楚な方ですから、身なりなんて全然気になりませんよ?」
そうしたら、とんでもない褒め言葉が飛んできた。さて、ここからどう切り返したものか。内心頭を抱えつつ言葉を探していたら、深みのある声が聞こえてきた。
「お似合いだとか、そういう話ではないのですよ、文子さん」
あ、聞き覚えのあるこの声の主は……。
「げっ、おっちゃん」
いつの間にか、文子さんの後ろに矢野さんが立っていた。先ほどと変わらない穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、目が笑っていない。中々の迫力だ。
「げっ、とは何ですか。紅子様を呼びにいったきりいつまで経っても戻らないので、様子を見にきてみれば……それどころか、勝手な噂をべらべらと……」
ふうとため息をついて、矢野さんはわたしに向き直る。
「至らない娘で、申し訳ありません。おまけに、まだ礼儀作法もきちんと身についておらず……」
「いえ、気にしていませんから。それにこういった明るさは、彼女の美点だと思います」
矢野さんはひどく恐縮しているし、文子さんもしょんぼりしてしまっている。
確かに、妙な噂を立てられたことにはとまどいもあるけれど、二人が暗い顔をしているのは嬉しくないなと、そう思った。
だからとっさに、そう答えた。すると、文子さんが真っ先に反応する。彼女は両手をぎゅっと握りしめると、くねくねと身をよじったのだ。
「紅子様、ああ、なんてお優しいの……!」
もしかしてこれは、感動しているのだろうか。それにしても彼女は、感情表現が豊かだ。というか、豊かすぎる。
面白いなあという気持ちが半分、どう反応していいか分からないという気持ちが半分といった感じで黙っていたら、矢野さんがまた口を開いた。
「文子さん」
「あっ、はい!」
とたん、文子さんがびしりと背筋を伸ばし、一転して真剣そのものの声で答えた。この態度……ああ、町で見かけた新米警官そっくり。上司の命令に、がちがちに緊張している若者の。
でもよく見ると矢野さんの目には温かな色が浮かんでいるし、文子さんもおびえてはいない。なんだかんだで、仲はいいのかもしれない。
「……ふふっ」
そんなことを考えていたら、つい笑いがもれてしまった。じっと見つめ合っていた矢野さんと文子さんが、同時に目を丸くしてわたしを見てくる。
「あ、いえ、その……おふたりは、仲がいいんだなって、そう思っただけですから……」
必死に笑いをこらえながら、そんなことを口にした。きっとこの二人は気を悪くすることもないだろうなと、そう確信できていたから。
「はい、おっちゃんは怖いけれど、いい人ですから!」
予想通り、文子さんがまたぱっと顔を輝かせて力説する。それを見た矢野さんが、ため息をつきつつ苦笑した。
「おっちゃんはやめてくださいと、何度言ったら……」
ほら、やっぱり仲がよかった。くすりと笑った拍子に、お腹がくうと小さく鳴ってしまう。次の瞬間、文子さんと矢野さんが、同時にわたしのほうに向き直った。
「あ、そういえば! あたし、夕食のことをお知らせにきたんでした!」
「いけませんね、私まで乗せられてしまって……申し訳ありません、紅子様。急ぎ、食堂までご案内いたしましょう」
「おっちゃん、それはあたしの仕事で……」
「あなたに任せておいたら、またあらぬほうに話が脱線していくでしょう」
そんなことを言い合っているふたりに案内されて、離れを出た。
この屋敷に来て、まだせいぜい数時間しか経っていない。けれどその間に、次々といろんなことが起こっている。目まぐるしいけれど、それを楽しみにしている自分もいた。
「あ、紅子様。晴臣様の婚約者がおいでになったとかで、料理人たちが張り切っちゃって、今日の夕食はちょっと豪華な感じなんですよ!」
前を行く文子さんが振り返って、満面の笑みでそう教えてくれた。返事をしたのは、わたしのお腹の音だった。




