7.偶然がつないだ縁
わたしがこの橘花の屋敷に来ることになったきっかけを、矢野さんの娘さんが作った。どういうことだろう。
「晴臣様は昔から、何かを探しておられるようでした」
矢野さんはわたしをまっすぐに見つめたまま、静かに告げる。
「時間が空くと帝都のあちこちに繰り出しては、うろうろと歩き回られていたのです。ですが何を探しておられるのかは、教えてもらえませんでした」
その探し物は、きっとわたしだ。さっき晴臣も、わたしを探してさまよっていたのだと、そう言っていた。
「ただ……外出から戻ってこられたあとの晴臣様は、いつも気落ちされていたものです。きっと、とても大切なものを探しているのだろうと、屋敷のみなはそう考えていました」
悲しそうに眉根を寄せた矢野さんの声音が、ふと変わった。
「そんなおり、娘が『遠出した先の貸本屋で、とても人目を引く女性を見かけた』と言い出したのです」
彼は、とても優しく微笑んでいた。けれど、わたしを見つめるまなざしには、やけに楽しそうな色がある。
「『つつましやかで儚げな、雪の中でひっそり咲く椿のような、とびきり美しい女性でした。何より、赤い左の目がとても神秘的だったんです。前髪で隠しているのがもったいないと思えるくらいに』……娘は、そう言っていました」
とっさにぱっと手を上げて、左目を隠す。
ああ、頬が熱い。帝都を歩くと決めたときに、他人に見られることは覚悟していたつもりだった。でも、こうも熱心な褒め言葉を向けられるのは、予想外だった。どんな顔をしていればいいのか、分からない。
「その話を耳にした晴臣様は、顔色を変えられました。その貸本屋はどこにある、と言って、私に車を運転させ、すぐに屋敷を飛び出していかれたのです。……それが、今朝のことでした」
困惑するわたしに、矢野さんはゆったりと語りかけてくる。
「そうして晴臣様は、貴女の手を引いて戻ってこられたのです。赤い目をした、貴女を」
彼の顔に、ふわりと柔らかな笑みが浮かんだ。
「あのときの晴臣様の、あの表情……ああ、この女性が晴臣様の『探しもの』だったのだと、ひと目で分かりました」
矢野さんは、息子を見守る父親のような、そんな表情をしていた。
「私は晴臣様が赤子のころから、この橘花家にお仕えしております。あの方は冷静で、優秀ですが、同時にどことなく浮世離れしておられるといいますか……何物にも執着されないようなところがありました」
なるほど、やはり晴臣は、山吹だったころの無邪気な顔は見せずに生きてきたらしい。矢野さんの口から語られる晴臣の姿に、なんともいえない感慨深さを覚えてしまった。
「そんなあの方が、『探しもの』だけには不思議なくらいに執着しておられた。つまり晴臣様にとって、貴女はこの上なく特別な存在なのでしょう」
素性の知れない、いきなりやってきた女性であるわたしを前に、矢野さんは迷うことなく断言した。
「紅子様。ここでの暮らしは、貴女にとっては驚くことばかりで、すぐにはなじめないかと思いますが……それでも、できる限り長くここに留まっていただけると、私も嬉しいです」
どうやら彼は、いずれわたしがここを出ていくのではないかと、そのことを心配しているようだった。
晴臣も矢野さんも、わたしがここに残ることを望んでくれている。でも、その言葉に甘えていいのだろうか。まだ、決心がつかない。
前世の記憶がよみがえってから感じていた、つかみどころのないもやもやした思いに、胸が苦しくなる。
そっと胸を押さえたわたしに、矢野さんは優しく言った。
「今日帰宅したら、娘に報告しようと思うのです。貴女のおかげで、晴臣様は『探しもの』を見つけられたのですよ、と」
また、話が飛んでいる。どうしたのだろうと彼の顔を見たら、彼はいたずらっぽく目を細めた。
「きっと娘は、その『探しもの』を見ようと、こちらにやってくると思うのです」
なぜかそのさまが、ありありと脳裏に浮かんでしまった。好奇心旺盛な少女が目を輝かせて、この屋敷に走ってくる、そんな姿だ。想像しただけで笑顔になってしまうような、微笑ましい光景だ。
「どうかそれまでは、ここに留まってはもらえませんか? 親として、娘ががっかりするところは見たくないのです。執事として、このような願いを口にすべきではないと分かってはいるのですが」
わたしの心が揺らいだのを見透かしたように、矢野さんが笑顔で付け加える。
彼はおっとりとした雰囲気とは裏腹に、中々のやり手のようだ。橘花家の当主である晴臣が信頼を寄せているのも分かる気がする。
「そう、ですね。まだ、これからどうするか決めていませんし……あなたの娘さんに会えるのが、楽しみです」
ちょっぴり緊張しながら、そう答えた。
「そうしていただけると、とてもありがたいです」
矢野さんは、また父親のような顔で微笑んでいた。
そんなやり取りから、少しあと。
「……一度にいろんなことがありすぎて、さすがに疲れたわ……」
矢野さんの案内で離れの部屋にやってきたわたしは、ひとりきりになるなりぐったりと伸びていた。
普段ろくに他人と口を利かない暮らしをしてきたということもあって、今日一日で一年分くらいは喋った気がする。疲れた。
文机によりかかるようにして座ったまま、あてがわれた部屋の中をぐるりと見回す。
こぢんまりとしているけれど、畳は新しく、縁側や廊下に続く障子には真っ白な紙が貼られている。隣の部屋との間を区切っているふすまには、赤い梅の花が描かれていた。手入れの行き届いた、上等な部屋だ。
上等なのは、部屋だけではない。文机はどっしりと重厚で、違い棚には小さな花瓶が置かれ、花が生けられている。つい先ほど手折られたのかと思うほどにみずみずしい。
わたしが普段暮らしている東藤の離れも、和風の平屋であることだけは同じだ。けれどあちらはすっかり古びていて、畳はなく、床はただの板張りだ。
あちこちにがたがきていたし、すぐに上から埃が降ってくるし、天井近くには蜘蛛の巣がはびこっていた。せっせと掃除はしていたのだけれど、埃や蜘蛛が増えるほうが早かった。
けれどこの離れときたら、目を見張らずにはいられないくらいにぴかぴかだった。
「メイドのみなさん、頑張っているのね……晴臣のあの口ぶりだと、わたしたちがここに着いてから部屋の支度を整えたはずなのに」
ぼんやりと独り言をつぶやきながら、さっきのことを思い出す。
洋風の母屋の扉をくぐって外に出ると、そこは優美な装飾が施された、西洋風の渡り廊下になっていた。
さらに渡り廊下の突き当たりには、古めかしい木の扉があった。その扉の先が、この離れに続いていたのだ。
矢野さんによると、この離れは当主とその家族が暮らすための場所であって、客間は母屋の一角にある洋風の部屋なのだそうだ。だから、わたしをここに通すように晴臣が言ったとき、矢野さんは驚いてしまったのだとか。
「晴臣が、すぐ近くで寝起きする……ってことよね。当主と客人としては、不適切なのかもしれないけれど」
前世のわたしと晴臣は、ずっと生活を共にしてきた。一緒に寝起きする生活は、楽しかった。ぼんやりとしか思い出せないけれど、そんな気がする。
ふっと微笑んだそのとき、裏返ったすっとんきょうな叫び声がした。
「あのっ、失礼します、紅子様!!」




