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6.執事の内緒話

「構わない。入れ」


 扉を叩く音が聞こえたのとほぼ同時に、晴臣はるおみが顔を引き締め、ゆったりと重々しい声で答えた。本当に、見事な変わりようだ。


 執事の矢野さんが部屋に入ってきて、わたしたちに一礼する。


「晴臣様、紅子べにこ様のお部屋の支度が整いました」


「ああ、ご苦労だった」


「それと晴臣様、省のほうからお客様がいらしております」


 続く矢野さんの言葉に、晴臣がはっきりと眉をひそめた。


「……分かった。こちらにお通ししてくれ」


 心底悔しそうな表情で、晴臣はわたしに向き直る。


「すまないが、急な仕事が入った。ここからの案内は、矢野に任せる」


 先ほど彼は、たまに大切な仕事が舞い込むのだと言っていた。たぶん今来ているのも、そういったもののひとつなのだろう。しかし、『省』って……いったい、どんな仕事なのだろうか。


「分かりました。晴臣様。お仕事、頑張ってくださいね」


 精いっぱいしとやかに笑いかけたら、晴臣はそれはもう嬉しそうに笑い返してくれた。さっきまでの落胆が嘘のような、晴れやかな笑顔だった。


 けれどすぐに眉をひそめ、矢野さんに向き直っている。


「矢野。紅子を部屋まで案内してやってくれ」


「承りました。それでは紅子様、ご案内いたします」




 矢野さんに続いて、晴臣の仕事部屋を出た。去り際にちらりと振り返ったら、雨に打たれる子犬のような様子の晴臣と目が合った。とことん、わたしと離れるのが嫌なようだ。


 部屋を出てすぐのところで、矢野さんが立ち止まる。


「少々、こちらでお待ちください。省のお客様を晴臣様のところにご案内するよう、他の執事に命じてまいりますので」


 そう言い残し、流れるような動きで立ち去っていった。


 彼の背中を見送って、ひとり廊下を眺める。辺りは掃除が行き届いていて、埃ひとつ落ちていない。窓ガラスはどこまでも透き通っていて、床板は輝いている。やっぱりここは、素敵な場所だ。


 のんびりと微笑んでいたら、視線を感じた。矢野さんが去っていったのとは別の方向、廊下の曲がり角のところから、若いメイドがきらきらと目を輝かせてわたしを見ていたのだ。興味を少しも隠そうとしていない、あけっぴろげな表情だ。


 こんなふうにまじまじと見られたのは初めてで、どうにも落ち着かない。彼女に声をかけようとしたら、背後のほうから規則正しい足音が近づいてきた。たぶん、こちらは矢野さんだ。


 それを聞いたメイドはあわてた顔になると、曲がり角の向こうに消えていく。ほぼ同時に、矢野さんがわたしのところまでやってきた。


「お待たせしました、紅子様。遅くなりまして、申し訳ありません」


「いえ、このお屋敷は本当に素敵ですから、待つのも楽しかったです。いくら眺めていても、飽きません」


 さっきのメイドのことは気になったけれど、顔には出さずにそう答える。矢野さんが、ほっとしたように笑った。


「そう言っていただけると光栄です。それでは改めて、お部屋までご案内いたしましょう」


 そうして矢野さんに先導されながら、屋敷の廊下をゆったりと歩く。矢野さんは何も言わなかったけれど、その足取りはわずかに弾んでいた。


 その上機嫌そうな背中を見ているうちに、ふと浮かんだことがあった。


「あの、ひとつ聞いてもいいでしょうか」


「どうぞ、なんなりと。……答えられるものでしたら、ですが」


「矢野さんから見て、晴臣様はどういった方なのでしょうか……?」


 わたしは彼に、あの子狐を重ねて見ている。けれど矢野さんをはじめとした使用人たちには、彼のまた違った側面が見えているに違いない。


 知りたい。彼らにとって、晴臣はどんな人間なのか。これまで晴臣が、どう過ごしていたのか。そう思ったら、止まれなかったのだ。


 こんなふうに感じてしまうなんて、もしかすると、わたしも浮かれているのかもしれない。


「物静かで、使用人思いのいい主です。私はあの方にお仕えできてよかったと、心からそう思っていますよ」


 ためらうことなく、矢野さんは言葉を返してきた。


「とても優秀で、優れた言語の才を備えておられます。その能力を買われ、通訳としての仕事もこなしておられるのですよ」


 誇らしげに語る彼の言葉を聞いて、納得した。さっき舞い込んできた仕事は、たぶんそっちの関係なのだろう。


 矢野さんはにこにこしていたけれど、ふと小首をかしげてしまった。


「ふむ。そうですね。もっと具体的な逸話をお話ししたほうがより分かりやすいかもしれませんね」


 彼は立ち止まると、かしこまった様子でこほんと咳ばらいをした。


「私は三十八歳でして、妻と娘がおります」


 突然、どうしたのだろう。そう思いつつ、つい彼の顔をまじまじと見つめてしまう。


 彼は若々しさと落ち着きを兼ね備えていて、年齢がよく分からなかった。三十八歳と言われて、納得できたようなできないような。


「私たち家族は、この屋敷の近くの家で暮らしています。私は毎日、そこから通ってきているのです」


 使用人には、大きく分けて二通りいる。主の屋敷の別棟、使用人のための部屋で暮らす者と、主の屋敷の外に家を構え、そこから通う者とだ。若いうちは前者が多く、年を取り仕事に熟達してきたものは後者が多いと、そう聞いたことがある。


「あれは、数年前のことでした。私は一度だけ、娘をこの屋敷に連れてきたことがあるのです。今は十二歳のおてんば盛りですが、当時はさらに元気そのもので」


 晴臣は、矢野さんのことを信頼しているように見えた。しかし普通、使用人の娘を気軽に屋敷に入れることはない……はずだ。少なくとも東藤とうどうの屋敷では、そんな話を聞いたことはない。


 それはそうとして、この話はどこに向かっているのだろう。わたしの困惑にはお構いなしに、矢野さんは話し続けている。


「私から日々屋敷の話を聞いていた娘が、ある朝『お屋敷に入ってみたい』とひどくだだをこねたのです。なだめたものの、少しも聞き入れてくれず……妻に娘を抑えてもらってどうにか家を飛び出したのですが、結局仕事に遅れてしまって……」


 そのさまを想像したら、くすりと笑みがもれてしまった。きっと矢野さんは、娘に対しても礼儀正しい、おっとりとした態度を崩さないのだろうな。


「三十分遅刻した私に、晴臣様はこう問いかけました。『遅刻の理由を聞かせてくれ』と」


 矢野さんの顔から、表情が消えた。つられて、息を呑んでしまう。


「私の説明を聞いた晴臣様は『ならば、娘を連れてくるといい。入り浸られては困るが、一度見学するくらいなら構わない』とおっしゃったのです」


「まあ、そんなことが……」


「はい。あのときは、本当に驚きました」


 わたしの言葉に、彼は苦笑しながらうなずいている。


「娘は目を輝かせて屋敷を見学し、ため息まじりにこう言ったのです。『ここって、西洋の物語に出てくるお城みたい! とってもきらきらしているわ!』と」


 彼の娘さんは、面白そうな子だ。そう思いながら、相槌を打つ。


「ふふっ、奇遇ですね。わたしもさっきから、同じようなことを感じています。もっともお城なんて、貸本屋の本でしか知りませんが」


「ええ、娘もそう言っていました。……娘は、本の虫なので。結局、娘は晴臣様にかけあって、時折本を借りにくるようになってしまったのです」


 ……面白そう……というより、とんでもない……といったほうが正しいのかもしれない。父親に似ず、型破りな娘さんだ。


「晴臣様は『若者は大いに学ぶべきだ。彼女の本に対する熱意も見せてもらった』とおっしゃっていたのですが……」


 語っている矢野さんの表情は、なんとも複雑なものだった。


「ここの蔵書は貸本屋のものに比べると遥かに高価なものばかりですし、そんなものを気軽に貸し出されると、こちらがはらはらしてしまいます」


「それが、普通の反応ですよね……」


 変わり者の主君と娘の間で、彼は苦労しているのだろうな。つい同情してしまう。すると、矢野さんはふっと真顔になって、わたしをまっすぐに見つめてきた。


「……紅子様。貴女と晴臣様がどういった関係なのか、私には分かりません。ですが今日、貴女がこうしてここにいるのは……娘がきっかけなのです」

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