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31.守ってくれていた人

 水虎が生み出した霧の中、涙ぐんでいたわたしの耳に、懐かしい声が聞こえてきた。ここにいるはずのない、遠い昔に別れてしまった、母の声。


 訳も分からないまま、助けを求めるように周囲を見渡す。


「……おかあ、さま……」


紅子べにこ、こちらよ』


 そうしたら、また母の声がした。少し離れたところから、わたしを呼んでいる。


 もしかしたら、これは罠かもしれない。そう思わなくもなかったけれど、足が勝手に動いていた。声がしたほうへと駆け出して、そのまま沼に踏み込んでいく。


「紅子様!?」


 わたしの動きに気づいたのか、すぐに晴臣はるおみの声が追いかけてきた。深い霧の中から、彼が姿を現す。


「いったい、どうされたのですか!?」


「呼ばれた……気がしたの」


 気がつけば、膝まで沼に浸かってしまっていた。わたしの手をつかんで引き留めようとした晴臣に、ためらいながら答える。


 首をかしげた拍子に、母の形見のかんざしが髪からするりと落ちた。


 かんざしはそのまま、まっすぐに沼へと落ちていく。とっさに手を伸ばして、かんざしを拾おうとした。けれどかんざしはわたしの手をすり抜けて、あっという間に沼の底へと沈んでいってしまう。


「そんな!」


 わたしの叫び声に、水虎のとまどい声が重なった。


『これは……何事だ? 動けない、だと!?』


 辺りに立ち込めていた霧が、みるみる引いていく。何が起こったのかと振り返ると、水虎の体に何かがからみついているのが見えた。あれは……木の根?


『ええい、こしゃくな!』


 木の根に拘束されて動けなくなっている水虎の上から、今度は別の何かがふわりと垂れてきた。こちらはおそらく、柳の枝だ。でもどうしてそんなものが、突然?


 柳の枝が、水虎にくるりと巻きつく。次の瞬間、吉野の体から水虎がずるりと引きはがされた。


 吉野はそのまま、ぐったりと目を閉じてうなだれている。どうやら、気を失っているらしい。


『くっ……力が、吸い取られる……なんだ、これは!!』


 こちらもまた柳の枝にぐるぐる巻きにされた水虎が、じたばたともがいている。けれど枝は、さらにしっかりと水虎を捕らえてしまっていた。


 何が起こっているのか、分からない。ただぽかんとしたまま、立ち尽くしていた。


「何が……起こっているの……」


「紅子様、あれを」


 晴臣がわたしの肩に手を置いて、振り向かせた。彼が指し示しているものを見て、息を呑む。


 先ほど沼に沈んだはずのかんざしが、宙高くに浮かんでいた。そしてかんざしを包み込むようにして、柳の木がすくすくと育っている。


 そのとき、あることに気がついた。かんざしについている陶器の玉には、柳の絵が描かれていた。なのに、今見えているそれは、ただの真っ白な玉になっていたのだ。


「まさか……かんざしの絵の柳が、抜け出した……?」


『放せ、放せと言うておるのだ、忌々しい木めが!』


「きっと、そうですよ。貴女の幸せを願う母君の思いが、貴女を守るために奇跡を起こしたんです」


 必死にあがく水虎と、神妙な声でつぶやく晴臣。その声を聞きながら、やはりぼんやりと目の前の光景を眺める。


 人の強い思いは、時として奇跡を起こす。そのことは知っていたけれど、まさか、実際に目にすることになるなんて……。


 すると、晴臣が耳元でささやいてきた。


「水虎を封じる、もっといい方法を思いつきました」


「もっといい方法って、どんな?」


「僕の力で大地の殻を作り、そこに水虎を閉じ込めるんです。そしてその殻を、あの柳の根で封じてもらえば、どうにかなるのではないでしょうか」


 晴臣は、大地を操ることを得意とする。水をも通さない大地の殻を作ることも、彼なら可能かもしれない。


「そうすれば、長い時間をかけて、柳が水虎の力を奪い尽くしてくれるはずです。大樹は水を吸い上げ、育つのですから」


「確かに、いい作戦かもしれないわ……」


 少なくとも、封印の術をろくに扱えないわたしたちだけでどうにかするよりは、ずっと勝算がありそうだ。


 小さくうなずくと、彼はわたしの手をしっかりと握ってきた。


「そのためにも紅子様、貴女の霊力を僕にください。僕ひとりの力では、足りないんです」


 わたしに宿る霊力は、炎の性質を持っている。だから晴臣の力と組み合わせることで、彼の力を増幅させることができる。……理論上は。


 もっとも前世のわたしたちは、そんなふうに力を合わせたことはなかった。そもそも、そんな発想に至らなかった。あのころの彼は、わたしにとっては守ってやるべきか弱い存在でしかなかったから。


 でも、今の彼なら。


 手を取り合ったまま、晴臣の顔をじっと見つめる。戦いの中で落としてしまったのか、そこに青眼鏡はない。優しい満月色の目が、まっすぐにわたしを見つめ返していた。


 その頼もしいまなざしに、力強い手の温もりに、心が決まった。


「……分かった。あなたを信じるわ」


「はい。お任せください」


 わたしの言葉に、晴臣はぱあっと顔を輝かせる。それから彼は、わたしを背後からそっと抱きしめた。ふたりで水虎に向かうようにして立ち、しっかりと手をからめる。


 つないだ手から、晴臣へと力を送っていく。晴臣の霊力が膨れ上がって、わたしたちふたりをすっぽり包み込む。ちょうど、大きな玉の中に、ふたりで閉じこもったような形だ。


『お主たち……何をしようとしている……?』


 わたしたちの動きに不穏なものを感じたのか、水虎が牙をむいてうなった。柳の根を無理やり引きちぎり、こちらへ向かって飛びかかってくる。


陽炎かげろう様のかたきを、討たせてもらいます」


 恐ろしいほど静かに、晴臣が答えた。わたしたちを囲む霊力の壁に、水虎の前足が触れる。


 次の瞬間、目の前の風景が一変した。


 わたしたちの周囲にあった霊力の壁が、ぐるんと反転して水虎を包み込んだのだ。霊力の壁はそのままみるみるうちに固まって、岩の塊へと姿を変える。


『ちっ、小賢しい!!』


「お母様、あとはお願いします!」


 自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。柳はまるでわたしの言葉を理解したように、勢いよく根を伸ばし、岩の塊にからみつく。


「うまく、いったのでしょうか……?」


 晴臣が呆然とつぶやいたのと同時に、柳がまばゆく光り出した。あまりの明るさに、目を開けていられない。


 とっさにぎゅっと目をつぶると、晴臣がわたしをくるりと振り向かせて、わたしの頭を胸元に抱え込むようにして腕を回してくる。


 そうしてふたり支え合ったまま、ただじっと立ち尽くしていた。




 閉じたまぶた越しにも分かるほどの光が、少しずつ薄れていくのを感じる。そろそろと顔を上げ、目を開けて……驚きに、息を呑んだ。


 つい先ほどまで、辺りには泥水が満ちていた。どんどん広がる沼が、何もかもを呑み込もうとしていた。


 けれど今、泥水はすっかり消え失せていた。その代わりに、澄み切った美しい泉が姿を現している。周囲には、屋敷の残骸がばらばらと散らばっていた。


 泉の真ん中には、あの柳の木がそびえ立っていた。枝も根も、もう動いてはいない。


 注意深く泉に近づき、中をのぞき込んでみる。


 底が見通せないくらいに深い泉の中に、ただ柳の根だけがどこまでも伸びているのが見えた。ずっと奥のほうでかすかに水虎の気配がするけれど、先ほどまでとは比べ物にならないくらいに弱々しい。


 これならもう、大丈夫だ。


 安堵のあまり、力が抜ける。ふらりとよろめいたわたしを、晴臣が支えてくれた。


「……お母様が、助けてくれたの」


 晴臣はわたしの肩に手をかけたまま、小さくうなずいていた。


「お母様はずっと、わたしのことを見守ってくれていた……」


 柳の幹の途中に、かんざしについていた飾り紐と珊瑚玉が下がっているのが、ちらりと見えていた。


「ありがとう、お母様……」


 ひとりでに、涙がこみ上げてくる。


 柳の枝が、さやさやと揺れた。まるで、笑っているように。

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