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30.因縁はまだ終わらず

「吉野……」


 どんどん近づいてくる吉野の姿を見ながら、小さく舌打ちする。


 水虎が言ったことをそのまま信じるなら、あいつは吉野の欲望を吸って力をつけている。この場に彼女が来てしまえば、水虎が有利になってしまいかねない。


 どうにかして、彼女を追い払えないか。そう思ったそのとき、さらに別の人影が近づいてきた。上等な背広に身を包んだ父と、振袖姿の千代だ。


 さらに千代の隣に、知らない男性がいる。上品でおっとりした雰囲気の、おそらく二十代半ばくらいの男性だ。この距離からでも、彼がまとっている服がとても上等なものだということが見て取れる。あの物腰といい、彼は華族なのだろうか。


 よくよく見ると、彼女たちのずっと後ろのほうに、一台の車が止まっているのが見えた。東藤とうどうの家が所有しているものではない。もっと立派で、大きなものだ。


 そこでようやく、状況が理解できた気がした。


 おそらく千代たちは、あの男性と一緒に出かけていたのだろう。そうして出先で屋敷の惨状を聞き、急いで戻ってきた。あくまでも推測でしかないけれど、合っている気がする。


 そんなことを考えている間にも、吉野は猛烈な勢いで、残りの三人はおっかなびっくりこちらへ近づいていた。


 彼女たちに気づいたのだろう、晴臣はるおみと水虎も動きを止めていた。晴臣は困り果てた様子で、水虎は心底楽しそうな表情で、この状況を見守っている。


 普通の人間でしかない吉野たちには、水虎の姿は見えていないはずだ。もし見えていてくれたなら、彼女たちをどう追い払えばいいのか、悩む必要もなかったのに。


 いっそここで、術を使ってしまおうか。燃え盛る炎を操れば、彼女たちをまとめて退かせることもできるはずだ。


 けれどそうすれば、わたしはさらに化け物扱いされてしまうだろう。わたしがどう言われようが別に構わないけれど、晴臣に迷惑がかかってしまうのはまずい。


 水虎を封じて、終わりではない。それから先も、わたしたちの暮らしは続く。ただ戦いのみを考えていればよかった、前世とは違う。きっと晴臣もそう考えて、術を繰り出す手を止めているのだと思う。


 悩んでいる間にも、吉野はわたしたちの近くまでやってきてしまう。しかし彼女はそのまま横を素通りすると、真っ青になって沼の縁に駆け寄っていた。


「ああ、あたしのドレス、宝石……みんな、沼の底に……」


 呆然とつぶやきながら、彼女がその場に崩れ落ちる。沼に手を突っ込んで中を探ろうとした彼女を、追いついてきた千代が必死に止めていた。


「お母様、危ないわ! しっかりなさって!」


「ええ、ええ、あたしは大丈夫よ。でも、あなたの大切な嫁入り道具も、この中に……」


 吉野はがっくりとうなだれて、弱々しくかぶりを振った。その声は、泣き出しそうに震えている。


 しかしすぐに、彼女はばっと顔を上げ、鬼のような形相でわたしをにらみつけてきた。


紅子べにこ、あんたのせいね! この疫病神!」


 彼女に怒鳴りつけられるのは、別にこれが初めてではない。けれどあまりの気迫に、思わずたじろいでしまった。


「ひと目見たときから、あたしはあんたが気に食わなかったのよ!」


 わたしがひるんだことに気をよくしたのか、彼女はさらに声を張り上げた。


「だから、あれこれ難癖つけて、いじめ抜いてやったんだ! でもそうしたら、あんたは男爵様のところに転がり込んでしまった。わざわざ婚約を報告しにきたときは、はらわたが煮えくり返りそうだったわ!」


 彼女の目は、ぎらぎらと禍々しい光を放っていた。


「だからあたしは、急いで千代の嫁ぎ先を探したのよ。あんたがたらしこんだ男より上の、子爵の跡継ぎ様をね! それがあちらの、佐々ささづか様さ!」


 離れたところで様子を見ているあの男性が、おそらくその佐々塚様なのだろう。彼はこの状況についていけないのか、呆然としている。その隣では父が、無言で唇をわななかせていた。


「あたしは誓ったんだ。ちんけな芸者なんかのまま、一生を終えてたまるかってね! 絶対に、のしあがってやるってね」


 みなの視線を集めながら、吉野は狂ったように笑う。


「だから一智かずとも様に取り入って、豊かな暮らしを手に入れた! そしてあたしの可愛いひとり娘は、華族の家の一員となる! やっと、あたしの望みがかなったんだ!」


 母親のあまりの剣幕に、千代が息を呑んだ。その顔は、今まで見たこともないくらいに青ざめてしまっている。


 吉野の血走った目が、わたしをまっすぐににらみつけた。もはや彼女の眼中には、千代はおろか、父や佐々塚様も入っていないらしい。


「それなのにあんたは、またあたしの邪魔をする……ひな、だったかしら? あの忌々しい女の面影を残した、うっとうしい小娘が!!」


 髪を振り乱して、彼女はわたしにつかみかかってくる。晴臣があわてて手を伸ばし、吉野をわたしから引きはがそうとした。


 そのとき、ゆったりとした声がした。わたしと晴臣だけが、はっと辺りを見渡す。


『ああ、見事な激情だ。恨みつらみに妬みそねみ、まっことよき具合に育ったものよ。待ったかいがあったというものだ』


 水虎が、笑っていた。


 その不気味さに、嫌な予感がした。わたしと晴臣が術を使おうと身構えたのと、水虎が姿を変えたのとがほぼ同時だった。


 水虎の体がぐにゃりとゆがみ、水のようにとろけてしまう。そのまま、沼の中に消えていってしまった。どこに行ったのか、必死に目を凝らす。


「ぎゃあっ!」


 すると、吉野の悲鳴が聞こえた。振り返ると、水の塊が彼女の全身をすっぽりと包み込んでいた。きっとあれは、水虎だ。


 いけない、一刻も早く引きはがさなくては。けれど彼女に向かって手を伸ばしたときにはもう、水虎はもう吉野の中に吸い込まれて影も形もなくなっていた。


 驚きに立ち尽くすわたしと晴臣の前で、吉野がにたりと笑う。打って変わって落ち着き払ったその態度に、先ほどの嫌な予感が的中してしまったのだと感じた。


『ほほう、思っていた以上によい器となっていたようだ。驚くほど、我になじむ』


 吉野の口が、悠々とそんな言葉を紡いだ。まぎれもない彼女の声で、水虎の口調で。


「お、お母様……?」


 千代には水虎が見えていないはずだけれど、彼女なりに異変を感じ取ったらしい。彼女の声は、あわれになるほど震えていた。混乱しきった彼女の表情を見て、水虎がにんまりと満足げに笑う。


『お主の母は、もうおらぬよ。我が、丸ごと飲み込んでしまったゆえにな』


「え……」


『何、気に病むことはない。この女の目的も、我の目的も同じだからな』


「もく、てき……なに……?」


『待っていてねえ、可愛い千代。邪魔な紅子を、今消してあげるからねえ』


 吉野の姿で、吉野の声で、吉野の口調で話す何か……でもそれは、吉野ではなかった。不運にも千代は、そのことを実感してしまったらしい。


「いっ、嫌ああぁっっ!!」


 悲鳴を上げて、千代がくたりとその場にくずおれる。とっさに抱き留めたら、彼女は気を失っていた。


「紅子、千代は任せてくれ」


 彼女をどこか安全なところに移さなくては、と周囲を見渡していたら、父が駆け寄ってきた。千代を抱きかかえ、小さな声でささやきかけてくる。


「……お前は何か、不可思議なものと戦っているのだろう。私にはよく分からないが……せめて、足を引っ張らないよう、下がっている」


「……そうしていただけると、助かります」


 驚いてしまって、一瞬返事が遅れた。父の顔には、確かにわたしを気遣う色があったから。以前、サチから昔話を聞いてはいたけれど……それでも、驚かずにはいられなかった。


「紅子様、来ます!」


 うっかりぽかんとしていたわたしの手を、晴臣がぐいと引いた。いつの間にか、水虎がわたしのすぐ近くまでやってきていて、わたしを襲おうと手を伸ばしていたのだ。


「ありがとう、晴臣……」


 そのまま後ずさって水虎と距離を取り、ふたりでささやき合う。


「しかし、大変なことになってしまったわ……」


「ええ、これでは戦うことすら難しいですね」


 わたしたちが操る術は、人間をも傷つける。そして困ったことに、水虎は今、吉野の体を乗っ取り、その中に隠れてしまっているのだ。術で水虎を攻撃しようとすれば、吉野の体も一緒に傷ついてしまう。


 吉野には、さんざん嫌がらせをされてきた。でもだからといって、彼女を傷つけたくもなかった。


「どうにかして水虎をあの方から引きはがすことができればいいのですが、僕もその方法は知らなくて……」


「だったら、吉野ごと水虎を封じてしまうしかないのかしら」


 いったん水虎を封じて、それから腰をすえて吉野を助け出す方法を探す。わたしには、こんなやり方しか思いつかない。


 でも、そんなにうまくいくだろうか。ためらっていると、恐ろしい叫び声が響き渡った。


『紅子おおお、あんたさえいなければあああ』


 吉野の悲鳴と同時に、水の刃が襲いかかってきた。とっさにかわしたものの、なびいた髪がひとすじ水の刃に触れてしまった。髪が切れ、はらりと落ちる。


「紅子様!」


「大丈夫よ、かすっただけだから。やはり、力が増しているのね……厄介だわ」


『邪魔なカゲロウよ、お主に受けた傷、お主の存在に抑え込まれていた日々、忘れはしないぞ。じっくりといたぶって、この恨みを晴らしてやろう』


 わたしの焦りをかぎとったのか、水虎が愉快そうに告げてくる。そちらを見返して、隣の晴臣に呼びかけた。


「晴臣、手伝って。ふたりがかりで、封印の術をかけましょう。今は一刻を争うわ」


 彼が答えるより先に、また吉野の声がした。


『あたしを封じるのお? ひどいわ、あたしはただ千代のために頑張っていただけなのに』


 吉野は眉をきゅっと下げて、悲しげにしなを作っている。これは水虎が言わせているだけだと分かっていても、一瞬たじろいでしまう。


 そこを狙ったように、水の塊がひゅんと飛んできた。それはわたしではなく、隣の晴臣に突っ込んでいき、彼を跳ね飛ばした。


「ぐっ!!」


「晴臣!」


 膝をついた晴臣に手を貸して、立ち上がらせる。それから、大急ぎで封印の術の続きに取りかかる。


 手を動かして、目の前の宙に光る線を描いていく。けれど緊張と困惑で、手が震えて仕方がない。晴臣も懸命に頑張ってはいるものの、こちらも遅々として進まないようだ。


『まったく、無駄な抵抗をするものだ。まあよい、もう少しからかってやろうか』


 水虎がそう言ったのと同時に、どこからともなく霧がわき起こる。すぐ隣にいるはずの晴臣の姿すら見えなくなるような、濃い霧だ。


 ようやっと描けた線が、霧に乱されてかき消されてしまう。必死に線を描いて、また消されて。これでは天蓋を完成させることなんて、いつまで経ってもできはしない。


「……どうしよう」


 そんなつぶやきが、ひとりでにもれた。


 ああ、また負けてしまう。前のときは、師匠が封印を施してくれた。でも今わたしたちが負けたら、もう誰も水虎を止めることができない。


 絶望が、胸を黒く染めていく。もう、駄目なのだろうか。だったらせめて晴臣だけでも、ここから逃がせないだろうか。帝都が水に沈むとしても、彼だけでも守りたい。


『紅子』


 涙をこらえていたら、懐かしい声が聞こえた、ような気がした。甘く優しく、温かい……ああ、これは……。


「おかあ……さま……?」

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