17.隠しきれない動揺
貸本屋に行った日の夜、いつものようにふたりで縁側に並んで座りながら、じっと考えていた。
昼間の晴臣は、何やらただならぬ様子だった。きっと、あのとき手に取っていた本、『古今怪異集』のせいだろう。
あの本に記されていた内容を思い出すと、どうしようもなく胸がざわつく。何かが引っかかって仕方がない。
このもどかしさは、かつて思い出した前世の記憶、前世のわたしの最期の記憶とも関係している気がする。
これまでに何度か、前世のわたしについて晴臣に尋ねた。けれどそのたびに、はぐらかされてしまった。
でも、さすがにこのままにはしておけない。わたしが赤い左目を持って生まれてきた意味が、そこにあるのかもしれないのだから。
「ねえ、晴臣。ひとつ、聞きたいことがあるの」
「はい、何でしょう?」
わたしの言葉に、晴臣はおっとりと笑いながらすぐに答える。わたしと一緒にいられるのが嬉しくてたまらない、そんな様子だ。昼間のぎこちない雰囲気は、もうどこにもない。
「わたしは、あなたと再会したことで、前世の自分の名前を思い出した。あなたのことも、思い出した」
「ええ。山吹と呼んでいただけたとき、泣きたくなるくらいに嬉しかったです」
ふんわりと微笑んでいる彼がまぶしくて、視線をそらしてしまう。彼を問い詰めたら、この笑顔がくもってしまうかもしれない。それは本意ではないけれど、聞かなくては。
「そして、もうひとつ思い出したことがあるの。たぶんそれは……前世のわたしの、最期のこと」
晴臣が、ひゅっと息を吸う音がした。きっと、彼はこわばった顔をしているのだろう。
「森の中、倒れていたわたしは……泣いているあなたを見ながら、このままじゃ死ねない、まだやり残したことがあるって、そう考えていた」
思い出してすぐのころは、その記憶の衝撃が強すぎて、きちんと自分の思いを整理できていなかった。
でも、今なら分かる。わたしはあのとき、ふたつのことを考えていたのだ。
山吹が泣いているのが、辛かった。励ましてやりたかった。まだまだ一緒に、野山を駆け回っていたかった。
そんな思いとは別に、猛烈な焦りと悔しさ、そして後悔が胸に満ちていた。けれどこちらの理由は、いくら考えても思い出せなかった。
でもきっと、晴臣はその答えを知っている。
「お願い。わたしが何をやり残していたのか、教えて。このままでは、わたしは幸せになれない」
わたしのこの赤い左目が、母を不幸にした。その負い目は、きっとちくちくと胸を刺し続けるだろう。前世でやり残したことをなしとげるまで、ずっと。
すがるように晴臣を見つめ、答えを待つ。
「……やり残したことなど、ありませんよ」
しかし返ってきたのは、そんな短い言葉だけだった。
そんなはずはないと言いかけたそのとき、彼がまた静かに口を開く。
「いえ、ひとつだけ……あるかもしれませんね」
彼の視線が、夜空に煌々と輝く月に向けられる。遠い目をして、彼は続ける。
「陽炎だった貴女は、ただひたすらに人ならざるものと戦い続けていました。そして紅子である貴女は、不遇の人生を送ってきました。そんな貴女がしなくてはならないこと、それは」
言葉を切って、彼はこちらを見た。闇夜に光る猫の目のような、金色に輝く目で。
「……過去のしがらみなんて全部忘れて、幸せになることですよ」
やはり、はぐらかされている。そう感じたものの、何も言い返せなかった。月に照らされた彼は、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
「紅子。君に、学んでもらいたいことがある。僕の婚約者として、必要なことだ」
次の日の朝食後、晴臣はやけにかしこまった顔で告げてくる。昨夜の弱々しさの名残などどこにもない、堂々たる態度だ。
彼の婚約者として、必要なこと。さて、何だろうか。
テーブルマナーについては、食事のたび晴臣に教わっている。教養については、空き時間に晴臣から借りた本を読んで頭に叩き込んだ。本を読むのはとても楽しいし、苦にならない。
となると次は……礼儀作法あたりだろうか。さすがにあれは、教師がいたほうがいいだろうし。
「もしかして礼儀作法、ですか?」
そう尋ねてみたら、晴臣はくすりと笑って、小さく首を横に振った。
「もっと重要なことだ」
「……こんなにくっつく必要が、本当にあるの?」
その直後、わたしは晴臣に連れられて屋敷の一室に移動していた。普段はあまり使われていない、一階の広間だ。そこでふたりきり、ダンスの練習が始まったのだ。
テーブルの上では、レコードが甘やかな音楽を奏でている。ゆったりとした旋律に合わせて、晴臣はステップを踏んでいた。左腕で、わたしをしっかりと抱きしめたまま。
「西洋のダンスは、こういうものですから」
誰もいないのをいいことに、晴臣が顔を寄せてくる。彼の吐息が、耳をくすぐった。
「……本当に、人前で、こんな体勢で踊るの?」
正直、信じがたい。晴臣は、「男爵家の当主とその夫人ともなれば、パーティーなどに呼ばれて踊ることもある」と断言していた。
けれどこの体勢は……さすがに恥ずかしい。上流階級の人たちの考えることって、分からない。
「ほら、紅子様。緊張しているのですか? 肩の力を抜いて、僕に体を預けてください」
わたしの腰をしっかりと抱き寄せたまま、晴臣が笑う。
「……ダンスの練習というより、あなたが個人的に楽しんでいるだけのような気がしてきたわ」
「必要だというのは事実です。けれど同時に、楽しいのも事実ですよ」
そんなことを話しながら、彼はわたしを支えてさらにくるくると回っている。
わたしは最初のうちこそ抵抗していたけれど、彼に体を預けてしまったほうが楽だと気づいて、今ではされるがままになっている。
しかし、こうもくっついていると……勝手に、鼓動が速くなってしまう。
彼はあの子狐だと自分に言い聞かせてはみるものの、見えているもの、触れているもの全てがその言葉を裏切る。
普段はそこまで意識していなかったけれど、やっぱり今の彼は私より年上の、とても魅力的な青年なのだ。しかも、わたしのことを何より大切に思ってくれている。
普通の乙女なら、ころりと恋に落ちてもおかしくはない。だがあいにく、わたしは普通ではない。だから、この程度でくらりとくることは……。
「顔が赤いぞ、紅子」
「ひゃっ!」
考え事をしていた最中にいきなり甘くささやかれて、うっかり裏返った声を上げてしまう。しかも今、わざと口調を変えてきた。
「どうした、この状況で上の空か?」
「そ、それは、その……」
言えない。うっかり晴臣にときめきそうになっていた、なんて。もっとも、今のわたしたちは婚約者という関係なのだから、ときめいたところで問題はないのだけれど。
口ごもっていたら、晴臣の腕に力がこもった。彼は足を止めると、わたしをぎゅっと胸元に抱き寄せる。
「……僕は貴女に、幸せを差し上げたいんです。他に何も考えられなくなるくらい、とびきりの幸せを」
やけに気弱な声で、晴臣はぽつりとつぶやいた。昨夜の一幕を思い出す、そんな態度だった。
「ひとりの女性として普通に生きる、そんな未来を、貴女に差し上げたい」
しっかりと抱きしめられているせいで、彼の顔は見えない。ただ彼の胸元に顔をうずめたまま、やけに近くから聞こえる声を聞いていた。
「何者からも、貴女を守り抜きたい。もう、あんなのは……嫌なんです」
彼の声には、涙の響きがあった。彼の言葉の意味が気になったけれど、問いかけることもできなかった。それくらいに彼は、辛そうな声をしていたから。
わたしを抱きしめた彼の腕は、少しも緩むことはなかった。




