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16.ささやかな違和感

 貸本屋、星辰庵。わたしが一度だけ足を運んだ店で、そしてミヨちゃんがわたしを見つけた店だ。その結果、わたしと晴臣はるおみは再会することができた。


 以前この辺りに来たのも、この店に入ったのも、ちょっとした気まぐれでしかなかった。それがまさか、こんなことになるなんて。くすりと笑いながら、晴臣と一緒に入り口をくぐる。


 店の中には、紙と埃の匂いが立ち込めていた。人によるとは思うけれど、わたしはこの匂い、嫌いじゃない。むしろ、とても落ち着く。


 そういえば晴臣の仕事部屋も、ほんの少しだけこんな匂いがしていた。


 こっそりとそんなことを考えつつ、店の中を見回す。


 壁にはずらりと本棚が並び、みっちりと本が詰め込まれている。それでもしまいきれなかったらしい本が、部屋の中央のテーブルの上に並べられていた。前に来たときも思ったけれど、ここの店主、整理整頓は苦手なのかもしれない。


 店の一番奥にある別のテーブルでは、骨ばった雰囲気の初老の男性が新聞を読んでいた。彼がここの店主だ。


「いらっしゃい、ミヨの嬢ちゃん。前もその前もひとりで来たのに、今日は大人と一緒か? 親御さんには見えないが」


「そうなんです! 父のご主人様と、その婚約者様ですよ!」


「となると……そちらが橘花たちばな様か。どうも、お初にお目にかかります。星辰庵の店主、原です」


 ミヨちゃんの説明を聞いた店主が、晴臣に向かって頭を下げた。それからわたしを見て、小首をかしげている。少しして、はっと膝を打った。


「……おや、そちらは……もしかして、前に一度ふらりとやってきたお嬢さんか?」


「はい」


 前に来たとき、わたしはここに長居していない。店の中をざっと歩いて、数冊本を手に取ってめくっただけだ。できることなら借りたかったなと、後ろ髪引かれる思いで店を出た。


 だから、店主がわたしのことを覚えているなんて思わなかった。驚きつつうなずいたら、彼は弾けるような笑みを浮かべた。


「いやあ驚いた。不思議なくらい人目を引くべっぴんさんだと思っていたが、さらに磨きがかかったなあ」


 今わたしが着ているのは、母の形見の古い着物ではなく、晴臣が鶴羽屋に仕立てさせた上等な着物だ。一応、外出着として洋装のワンピースも作ってはもらったものの、やはり着物のほうが落ち着く。


「あ、ありがとうございます……」


「今の格好も、とてもよく似合ってるぞ。……いや、橘花様の婚約者なら、もっと礼儀正しく話しかけるべきだったな。すみませんね」


 にこにこと話していた店主が、ふと真顔になる。


「いえ、あの、そのままで構いませんので……」


 かしこまった雰囲気にとまどってしまい、とっさに言葉を返す。できれば、さっきまでの砕けた態度で接してくれると嬉しいなと、そう思ったのだ。


 この星辰庵の主人は、わたしの左目が赤いことに触れようとしない。気にしていないのか、気を遣ってくれているのか。


 そもそも、わたしの目を気にしていないのは、彼だけではない。橘花の屋敷の人たちも、鶴羽屋の三人もそうだった。もっともそれは、晴臣の婚約者という立場のおかげなのかもしれないけれど。


 でもミヨちゃんのように、わたしの目をきれいだと褒めてくれる人もいる。近頃わたしは、自分の左目を意識することが減っていた。


 ……東藤とうどうの家を出ただけで、こんなにいろんなことが変わるとは。勇気を出して外に出てみてよかったと、改めてそう思う。


 しんみりしていたら、店主がまた朗らかそのものの笑みを浮かべた。


「ところで、せっかく来たんだ。何か借りていくか?」


「はーい! そこの本の山、新しく仕入れたやつですよね? 見せてください!」


 ミヨちゃんが、元気よく返事をして別のテーブルに駆け寄っていく。


 それを見ながら、わたしも晴臣と一緒に店内を眺めた。


 今までは、周囲の目をはばかりながら、ほんの少し立ち読みをするだけだった。注目されないように、帰りが遅くならないように、ずっとそんなことを気にしていた。


 でも今は、時間を気にすることなく本を選べるし、借りることもできる。そう考えたら、つい浮かれてしまった。本棚から本棚に、ふらふらと歩き回る。


「あの本、変わった題ですね……あ、そっちの本も面白そう……」


紅子べにこ、そんなに本が気になるか?」


「ええ。……あの家で暮らしていたころは、手の届かないものでしたから。あなたの仕事部屋の本も面白いですが、ここにあるものはまた趣が異なっていて、興味深いです」


 橘花の屋敷に移ってから、晴臣に何冊も本を借りた。ただ彼の蔵書は、どちらかというと堅苦しい、学術書とでも呼ぶべきものがほとんどだったのだ。


 一方でここにあるのは、貸本屋の例にもれず、もっと庶民向けの軽い読み物が多いようだ。


 本棚に手を伸ばし、目についた本を引っ張り出してみる。表紙には、『西洋幻想物語集』と記されていた。


 ぱらぱらとめくってみると、そこには読みやすい柔らかな文体で、異国のものらしい物語が記されていた。


 晴臣は本をめくるわたしのそばに立ち、じっとわたしの手元をのぞき込んでくる。とても真剣な目つきだ。


「晴臣様、気になるんですか?」


「ああ。洋の東西を問わず、人ならぬものが出てくる物語は好きだ」


 それを聞いて、ふと思い至ったことがあった。声をひそめて、彼の耳元でささやきかける。


「……ねえ、山吹やまぶき。もしかして、懐かしいの?」


「実は、それもあります」


 はにかむように笑っていた晴臣が、またふっと顔を引き締めた。


「紅子、これを借りていって、あとで二人で読もう。気に入ったなら、改めて買い求めるのもいいかもしれないな」


「おや、橘花様はそういった本もお好きでしたか。でしたら、こちらもいかがです?」


 わたしたちの会話を耳にしたらしい店主が、笑顔で別の本を差し出してきた。素直に受け取り、まじまじと眺める。


「こちらは『古今怪異集』ですか……」


 開いてみると、様々なあやかしの絵が次々と目に飛び込んできた。その横には、短い文で説明が添えられている。言うなれば、あやかし図鑑といったところだろうか。


 前世のわたしは、様々なあやかしと戦っていた。人にあだなすものたちを打ち滅ぼし、鎮めるのがわたしの役目だったから。


 懐かしさを覚えつつ、ぱらぱらとページをめくる。晴臣の前世の姿は載っていないかななどと考えてしまう。とはいえ、彼はわたしが山気から生み出した式神だから、さすがに載っていないだろう。


 そう思いつつ、もう少しだけ読み進める。最初のほうでは小さく弱々しげな怪異ばかりが描かれていたのに、どんどん恐ろしげなものに移り変わっている。


「河童……天狗……土蜘蛛……七人ミサキ…………水虎すいこ?」


 何気なしにあやかしの名を読み上げていると、何か引っかかるものを感じた。それと同時に、いきなり晴臣の声が割り込んでくる。


「紅子」


 いきなり晴臣の手が伸びてきて、わたしの手から本を奪い取ってしまった。


「そちらの本は、またの機会にしよう」


 そうして有無を言わさず、本を店主に返してしまう。彼の声も表情も、やけにこわばっていた。


 その態度に違和感を覚え、小声で尋ねてみる。


「どうしたの、晴臣? 何か、気に障ることでも書かれていたの?」


「……まあ、そんなところです」


 答える言葉も、不思議とそっけない。再会してからの彼が、こんな態度をとるのは初めてだ。


「あ、じゃあ、私が借りてもいいですか?」


 わたしと晴臣のやり取りを見ていたミヨちゃんが、明るく手を挙げる。晴臣は苦虫を噛み潰したような顔をしていたけれど、無言で小さくうなずいた。


 彼のやけにそっけない態度は、ミヨちゃんにとっても不思議なものだったらしい。ミヨちゃんは店主から受け取った本を抱えて、きょとんと首をかしげていた。


 わたしたちのもの言いたげな視線にも、晴臣は何も答えなかった。

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