18.昔話を、ひとつ
ダンスの練習をしていたときの晴臣は、ひどく苦しげだった
彼はずっと、穏やかな笑みの下に、様々な思いを秘めていたのだろう。彼に抱きしめられながら、そう思った。
しかし彼はその後、何事もなかったかのように過ごしていた。前と同じ日々が、ゆったりと過ぎていた。
たぶん、わたしがまた過去の話をすれば、きっと彼はまた悲しそうな顔をするのだろう。そう思えてしまったから、もうわたしは彼をそれ以上問い詰めることもできなかった。
前世のわたしの最期の記憶、赤い目をした今のわたし、ただひたすらにわたしの幸せを望む晴臣。それらは全部、同じところにつながっている気がする。
でも、これ以上晴臣から話を聞き出すのは止めておこう。彼を苦しめるのは、本意ではないから。
けれど、ただじっとしているだけいうのも、どうにも心もとなかった。
だったら、わたしにできることは……。
離れを出て、母屋のほうに向かう。少し、その辺を歩いてこようと思ったのだ。
かつてわたしは、帝都をふらふらと歩いていて、晴臣に再会した。それをきっかけとして、前世の記憶が少しだけよみがえった。
そして、貸本屋で『古今怪異集』を見て、また別の記憶がよみがえりそうになった。
きっとこの帝都には、まだ前世の記憶の手掛かりになるものがあるのかもしれない。だったらそれを、探してみよう。
途方もないように思えるけれど、かつて晴臣もわたしを探して帝都をさまよっていたのだ。わたしだって、それくらい努力しなくては。
張り切って廊下を歩いていたら、文子さんと行き合った。彼女はわたしを見たとたん、ぱあっと顔を輝かせる。
「紅子様! ……その、今お暇ですか?」
暇といえば暇だ。何せこれから、その辺をふらふらする予定だったのだし。
「ええ、気晴らしに、外を散歩しようかと思っていたのだけれど」
まさか、前世の記憶の手掛かりを探しにいくなんて言えない。とっさにはぐらかすと、文子さんが深々と頭を下げてきた。しかも、まるで拝むように、両手のひらをしっかりと合わせている。
「お願いします、紅子様! こんなことを頼める立場じゃないって分かってますけど、どうかあたしを助けると思って!」
「あの……何を頼もうとしているの? それが分からないと、返事のしようがないわ」
困りつつそう指摘すると、文子さんがはっという顔になった。相変わらずそそっかしい。けれどそういうところが、彼女の魅力でもある。
「いっけない、そうでした! それがですね……」
誰か……たぶん、矢野さんに聞きつけられはしないかと注意しているらしく、文子さんが思いっきり声をひそめる。そうして、わたしの耳元でささやいてきた。
ひそひそ話をひととおり聞き終えて、ぐっと眉間にしわを寄せる。
「ええと、つまり文子さんはこれから鶴羽屋にお使いにいかなければならないのだけれど、あの店に近づきたくなくて困っている、ということ?」
「はい。康文おじさんや民江さんがいてくれればいいんですけど、あのお店、たまにサチさんがひとりで店番をしていることがあって……うっかりあれに当たると、気まずいんですよう」
彼女の言葉に、考える。物静かな老婆であるサチさんは、決して怖い人ではなかったと記憶している。わたしのよそいき着を仕立ててくれたときも、親切にしてくれたし。
「気まずい……どうしてかしら。サチさん、いい人だと思うのだけど」
ふとつぶやくと、文子さんはきまりが悪そうに視線をそらした。
「……前に、鶴羽屋にお使いにいったとき、トルソーを三つまとめてなぎ倒しちゃったんです……もちろん、わざとじゃないですよ。うっかりつまずいたんです」
どうしてだろう。その様子、簡単に想像がつく。自然と口元が笑うのを、懸命にこらえた。
「幸い、何も壊さずに済みましたけど……矢野のおっちゃんにめちゃくちゃ説教されました……」
その状況も、まるで見てきたかのように思い描ける。
「で、それ以来、あたしはサチさんに目の敵にされていて……なので、いつもならお使いは他の子が行くんですけど、運悪く今日は、あたししか手が空いてなくて……」
しょんぼりしていた文子さんが、突然ばっと顔を上げる。
「なのでお願いします! 紅子様が一緒に来てくださったら、あたしだけでなく鶴羽屋も助かるんです!」
「わ、分かりましたから! 顔が近いです文子さん!」
ぐいぐい迫ってくる文子さんを押しのけながら、とうとうこらえきれなくなってくすりと笑った。
鶴羽屋は、落ち着いた雰囲気の洋風の建物だった。かつては違う場所で店を構えていたけれど、二十年ほど前にこの場所に移ってきたのだと、前に晴臣からそう聞いた。
店の外側は石造りで、室内には木が張られている。壁際には大きな棚があり、布地を巻いたものがたくさん並べられていた。
奥の壁際には、様々な衣装をまとったトルソーが並んでいる。文子さんがなぎ倒してしまったのは、あれらなのだろうか。
そして店のやや奥まったところには、ひときわ大きな机が置かれている。
その向こうでは、サチさんがぎろりとにらみを利かせていた。彼女の視線の先には、すっかりかしこまって縮こまった文子さん。なるほどこれでは、文子さんがわたしに助けを求めたくなるのも無理はないか。
苦笑しながら、用事を終える。といっても、書類を数枚届けるだけなので、すぐに終わった。
さて帰ろうかとサチさんに背を向けたそのとき、後ろから静かな声がした。
「紅子様、少しお時間をいただけないでしょうか。あなた様にだけ、お伝えしたいことがあるのです」
「わたしに……ですか?」
サチさんの声の重々しさに、ばっと振り向く。彼女は表情を変えずに、さらに言った。
「あなた様の、お母様のことなのです」
その言葉に、心臓がどくりと大きく跳ねる。
もしかしたら、サチさんはわたしの母のことを知っているかもしれない。前に晴臣とそんな話をしたけれど、まさか彼女のほうから、こんな形で声をかけられるなんて。
小さく息を吸ってから、そろそろと答える。
「……分かりました。文子さん、先に屋敷に戻っていてもらえるかしら。話を聞いたら、わたしも帰るから」
「了解しました!」
文子さんが元気よく店を出ていくのを見届けてから、サチさんに勧められた椅子に腰を下ろす。
「民江がいないので、お茶も出せずに申し訳ありません。私の足では、茶の盆を運ぶのはこたえるので」
「いえ、どうぞお構いなく。それで、話というのはどのようなものでしょう? わたしの母のことだと……」
恐縮しているサチさんに笑いかけ、話の続きをうながす。彼女はまた重々しい声で、ゆったりと語り始めた。
「はい。この鶴羽屋は、多くのお針子を抱えております。みなこの店の近くに住んでいて、私が声をかけると店に集まってくれるのです」
前にわたしの服を作ってもらったときに、そういった話を聞いた覚えがある。
「……ひな、当時は川瀬ひなという名前だったあの子も、そんなお針子のひとりでした。儚げで夢見るような目をした、今にも消えてしまいそうな子でしたよ」
母の名を告げられて、懐かしさがこみ上げてくる。ずっと前に亡くなってしまったけれど、確かに母はとても儚い雰囲気の女性だった。
「でも、針の腕は一流でした。あのままうちで勤めていたら、いずれは大きな仕事を任せられるようになると、私は確信していたんです」
サチさんも優しく目を細め、しみじみとつぶやく。
「ですがたまたま、店にお見えになった東藤一智様が、あの子を見初めてしまいました」
彼女はほんの少し、苦しそうな顔になっている。身分違いのその恋が招いた結末を、知っているからだろうか。
けれどじきに、彼女はまた落ち着き払った表情に戻ってしまった。
「紅子様が生まれてから、ひなは一度だけ私のところを訪ねてきたんです。赤い目の娘が生まれてきたことで、追い詰められていて」
その言葉が、ちくりと胸を刺す。わたしが生まれてきてからずっと感じていた負い目が、ここにいるぞと主張しているのを感じた。
「どんな目をしていようと、我が子は我が子。けれど士族である東藤の家には、親類も多くいる。みなは、この子を歓迎していない。ひなは、そう言って泣いていましたよ」
そんな私に、サチさんは優しく語りかけてくる。柔らかな声音に、思わず彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
「彼らは紅子様を、東藤の家の娘として認めなかった。しかし一智様は、親類を切り捨てるわけにもいかなかった。商売のためには、彼らの力も必要だったから」
膝の上でぎゅっと手を握り、今の言葉を頭の中で繰り返す。晴臣と一緒に東藤家に行ったときの、父の謝罪の言葉が、自然と思い起こされる。
「だから一智様は、娘を離れに押し込めて、存在しないものとするほかなかった。結局あのお方は、そんな状況に心が耐えかねたのか、よそに女を作ってしまわれたのですがね」
サチさんの声に、ほんの少しとがめるような響きが混じる。仕方のないことだったと分かっていても、それでも一智のしたことを認めたくはないと言いたげな口ぶりだった。
「ひなは、それでも一智様と、紅子様を愛していました。娘に何もしてやれないのが悔しいと、あの子は何度も繰り返していました」
愛しているわ、紅子。母は生前、何度もそう言ってくれた。あれは、母にできる精いっぱいのことだったのかもしれない。あの言葉の裏に、そんな事情があったなんて。目頭が、じんと熱くなってきた。
「紅子様。ひなの遺品の中に、かんざしはありませんでしたか? 白い陶器の玉に、柘植の木の。玉には、紺色の柳の枝が描かれていたはずです」
かすかに震えているわたしを気遣っているのか、サチさんが穏やかに笑って問いかけてくる。
かんざし……離れから持って帰った、あれだ。
無言のままうなずくと、サチはほっと息を吐いた。安心したのかもしれない。
「あれは、一智様がひなに初めて買ってやったものなのだそうです。ふたりが一番幸せだったころの、思い出の品で……」
語る彼女の目つきが、さらに優しく、柔らかくなった。
「紅子様が生まれてすぐ、ふたりはあのかんざしに願をかけたのだそうです。この子が幸せになれますように、この子を守ってくれますように、と」
「わたしのため……」
「はい。あなたがたが離れで暮らすようになってしばらく経ってから、ひなから文が届きました。一智様が、小さな赤い珊瑚玉をそっと差し入れてくださったのだと」
祖母がいたら、こんな感じだったのだろうか。彼女の優しい声音に、ちょっぴり涙ぐみそうになる。
「きっと、赤い目を持つあなたのための、秘密の贈り物だったのでしょう。あの方は様々な葛藤を抱えておられたようですが、それでもあなたへの愛情は、確かに残っていました」
父が、そんなことをしていたなんて。かつて東藤の屋敷を去るときに父が見せていた、寂しそうな顔を思い出す。
「いただいた珊瑚玉は、飾り紐でかんざしに取りつけておくつもりだと、ひなはそうも書いていました。いつか、このかんざしを娘に譲るときに、このことを話すつもりだと」
両親は、わたしの幸せを願ってくれていた。わたしが赤い目だったせいで、苦労をかけてしまったけれど……それでもふたりは、ずっとわたしのことを思ってくれていたのだ。
「ですからどうか、その赤い目を負い目に感じることなく、存分に幸せになってくださいませ。それがあなたのご両親の、本当の望みなのですから」
気がつけば、涙が一粒、手の甲へぱたりと落ちていた。




