第55話:若き天才の襲来と、飛鳥との決別
「……海斗殿。何ですか、この『愛の巣(仮)』と書かれた杭は」
背後から響いたのは、鈴の音のように涼やかだが、底冷えのする声だった。
海斗が「ひえっ」と声を上げて振り返ると、そこには鎌足の息子であり、次世代のホープである不比等が立っていた。
「あ、不比等くん! いや、これはその、今後のモチベーションアップのための配置計画というか……」
「父・鎌足より、先遣隊の調査が遅々として進まぬゆえ、様子を見てこいと命じられました。海斗殿、遊びではないのです。この遷都は、単なる引っ越しではありません」
不比等は海斗の杭を迷いなく引き抜くと、地図を広げた。
「中大兄様は、この近江で政治をリセットされるおつもりです。飛鳥の古き豪族たちのしがらみを断ち切り、天皇を中心とした新しい国を造る……。そのためには、一刻も早くこの地を要塞化せねばならないのです」
「……リセット、か。確かに前のバアちゃんの時とか、周りがうるさかったもんなぁ」
海斗の何気ない言葉に、不比等の目が鋭く光る。
「左様。唐の脅威が迫る今、古い身分や慣習にこだわっていては国が滅びます。だからこそ、逃げ場の多い飛鳥ではなく、この背水の陣とも言える近江なのです。海斗殿、貴様が『ここは安全だ』と言った言葉の重みを、忘れたわけではありますまい?」
「あ、いや、それは……(ただ怖かっただけなんて言えねぇ……)」
不比等の熱弁に、隣で子麻呂が「うう、正論すぎて胃が……」と蹲る。
「子麻呂殿、立ってください。明日までに、対岸を監視するための狼煙台の候補地を三箇所、リストアップしていただきます。海斗殿は、地元民の説得と物資調達の計画を。……いいですね?」
「……はい、承知いたしました⋯⋯」
不比等の放つ「デキる同僚」のオーラに、海斗はもはや「おやつを食べていいっすか?」と聞くことさえできなかった。近江ののんびりした空気は、若き天才の登場によって一変し、戦時下のような緊張感に包まれ始めたのである。
【今回の学習ポイント】
・政治的リセットと遷都: 当時の飛鳥は蘇我氏などの大豪族の影響力が強く、中大兄皇子にとっては改革を進めにくい場所だったんだ。新天地の近江に移ることで、古い勢力図を一度リセットし、自分の理想とする政治体制を築こうとする狙いがあったとも言われてるよ。
・藤原不比等の台頭: 鎌足の息子である彼は、後に「大宝律令」の制定に関わるなど、日本の法制度の基礎を作った超エリート。この時期から、父の代行として実務の最前線で頭角を現し始めていたんだ。
・対外防衛の緊迫感: 「白村江の戦い」に敗れた日本は、対馬から近畿にかけて「防人」を配置し、いくつもの「山城」を築いたんだ。遷都は、こうした国家規模の巨大な防衛プロジェクトの中心的な柱だったんだよ。




