第53話:近江(おうみ)の洗礼と、得体の知れない先遣隊
「おーい、誰かいないっすかー! 調査に来ましたよー!」
琵琶湖のほとり。海斗の声が、人気のない岸辺に響く。
そこは、飛鳥の喧騒とはかけ離れた、静かで少し寂れた場所だった。
「海斗殿、そんな大声を出さないでください……。我々は極秘の先遣隊なのですよ」
子麻呂が胃を押さえながらたしなめる。中大兄皇子の命による遷都の下見だ。不用意に情報を漏らせば、飛鳥の保守派が黙っていない。
「えー、でも誰かに聞かないと、どこが都にいい場所かなんて分かんないじゃん。あ、あそこに網を直してるおじいさんがいる」
海斗はトボトボと歩き、一人の老人に声をかけた。
「あ、そこのおじいさん! ここらへんで、一番地盤が固くて、景色がいい場所ってどこっすか?」
老人はゆっくりと顔を上げた。その目は、都から来た身なりの良い、しかしチャラついた若者を冷ややかに見つめている。
「……都の役人か。近頃、貴様らのような手合いがうろついておるが、今度は何だ。ここに大きな屋敷でも建てるつもりか?」
老人の言葉には、警戒心が滲んでいた。まだ公にはなっていないが、「近江に何かができる」という不穏な噂は、すでに鋭い地元民の間で広まりつつあるようだ。
「屋敷っていうか……もっとデカい、こう、ドーンとした街ができるかもって感じで……」
「海斗殿! 余計なことを!」
子麻呂が慌てて割って入るが、海斗はどこ吹く風で続ける。
「でもさ、おじいさん。もしここに偉い人たちが来たら、魚もたくさん売れるようになるし、案外悪くないかもよ? ま、最初は工事とかでバタバタするだろうけど」
「……フン。わしら地元の民は、静かに暮らせればそれでいい。斉明様が生きておられた頃も、あちこち掘り返して民を困らせたと聞く。その息子(中大兄皇子)も同じか」
老人は鼻で笑い、また網に目を落とした。海斗は「あー、やっぱり歓迎されてないなぁ」と頭をかく。
「ま、とりあえず今日は様子見ってことで。子麻呂くん、お腹空いたから琵琶湖の魚でも食べに行こうよ」
海斗の能天気な調査は、地元民の静かな反発を肌で感じるところから始まった。
【今回の学習ポイント】
・近江遷都は超不評: 667年に中大兄皇子が強行したこの引っ越し、実は当時の人たちからは「なんでわざわざあんな遠いところへ!」と大ブーイングだったんだ。『日本書紀』にも、不満を持った人たちが夜な夜な火をつけたなんて記録が残っているくらい、超ガチな反対運動があったんだよ。
・負け戦がきっかけ: なんでそんなに嫌がられても移りたかったかというと、数年前の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍にボロ負けしちゃったから。いつ攻めてこられるかビクビクしてたから、山に囲まれていて琵琶湖の水運も使える近江は、防御を固めるには最高の場所だったんだね。
・都の名前は「大津」: その名の通り「大きな港」という意味。琵琶湖は当時の超重要ハイウェイみたいなもので、物資を運ぶのにめちゃくちゃ便利だったんだ。実は当時の最先端を行く軍事・物流拠点だったというわけだね。




