第52話:近江への道は、遠くて険しい
「……なぁ、子麻呂。これ、いつ着くの?」
飛鳥を出発してから数日。俺、海斗は、生い茂る草木をかき分けながら弱音を吐いていた。
令和の時代なら、新幹線でパッと行ける距離だ。だが、この七世紀の日本にはコンクリートの道もなければ、冷房の効いた車両もない。あるのはひたすら続く山道と、容赦ない日差しだけだ。
「海斗殿、泣き言を言わないでください……。これでも、中大兄様が整備を急がせている官道なのですから」
隣で今にも倒れそうなのは、同僚の佐伯子麻呂。乙巳の変ではあんなに強かったのに、どうにもメンタルと胃腸が弱い。
「官道って、ただの獣道じゃん。あー、斉明バアちゃんが生きてたら、今頃ここに無理やり運河でも掘らせて、船でビューンと行けたのかなぁ」
「しっ、滅多なことを! 斉明様は確かに土木工事がお好きでしたが、そのためにどれだけの民が汗を流したか……。海斗殿は、あの御方の恐ろしさを忘れたのですか?」
子麻呂が怯えたように周囲を見回す。
確かに、斉明様の「やる」と決めた時の執念はすごかったらしい。海斗も一度、工事現場で「もっと深く掘らんかーい!」と檄を飛ばす彼女を見たことがあるが、ありゃあ完全に現場監督の目だった。
「でもさ、あのバアちゃんのバイタリティがあれば、近江に都を作るなんて一瞬だったかもよ」
「……まぁ、そうかもしれません。ですが、今回ばかりはわけが違います。唐や新羅がいつ海を渡ってくるか分からぬこの時に、飛鳥を捨てるのです。皆、期待と不安で気が気ではありませんよ。それを提案したのが、海斗殿だということも」
「だから、俺はただ逃げたかっただけだって……」
俺の言葉は、山間に響くセミの声にかき消された。
ようやく視界が開けた先には、鏡のように穏やかな水面を湛えた巨大な湖――琵琶湖が見えてきた。
「お、あれが琵琶湖? デカいじゃん! テンション上がってきた!」
「……近江大津宮、予定地はあちらです。海斗殿、ここからが仕事ですよ」
子麻呂の指差す先、まだ何もない荒地が、これから新しい日本の中心になろうとしていた。
【今回の学習ポイント】
・官道の整備: 古代日本において、都と地方を結ぶ幹線道路。当時はまだ未発達な場所も多かったけれど、遷都や軍事のために中大兄皇子は急ピッチで道の整備を進めていたんだよ。
・近江大津宮: 667年に天智天皇(中大兄皇子)が移した都。飛鳥から遠く、防衛には適していたけれど、当時の人々にとっては住み慣れた土地を離れる大きな決断だったんだ。
・古代の移動手段: 貴族は牛車を使うこともあったけれど、先遣隊のような実務部隊は基本は徒歩か馬。現代とは比べものにならないほど、移動は命がけの重労働だったんだね。




