第51話:上司のムチャ振りは、いつも突然に
「……え、引っ越し? マジで言ってんの?」
飛鳥の片隅で、俺、海斗は目の前の光景に呆然としていた。
「こんなヤバい場所から逃げたい」ってボヤいただけなのに、なぜかそれが『国家レベルの戦略的撤退』として受理されてしまったらしい。
「あー……引っ越し作業とか、マジでコスパ悪いんだけど。誰だよ遷都とか言い出したやつ」
「――貴様だ、海斗」
背後から聞き覚えのある、低くて厳しい声がした。
振り返ると、そこにはしばらく見ない間に一段とクマがひどくなった、俺の直属の上司・中臣鎌足が立っていた。
「あ、鎌足さん! お久しぶりっす。……って、俺のせいなのこれ?」
「貴様が『ここは危ない』と不比等に吹き込んだのだろうが。おかげで中大兄様までノリノリだ。斉明様が亡くなられてからというもの、中大兄様は即位もせずに政に追われておられる。その上に遷都となれば、引っ越し作業と事務作業で大わらわだ。このブラックな労働環境をどうしてくれる」
鎌足さんは頭を抱えてため息をついた。相変わらず上下関係には厳しいけど、どこか苦労人気質なところがあるから話しやすい。
「いや、俺はただ『怖いから帰りてぇ』って言っただけで……。てか、斉明様が生きてたら、また『もっとデカい塔を建てろ!』とか言って、引っ越しどころじゃなかったかもっすね」
海斗の脳裏に、数年前までこの国を振り回していたパワフルすぎる女帝、斉明天皇の姿が浮かんだ。狂ったように運河を掘らせたり、石の塔を建てさせたり……。あのバアちゃんに比べれば、中大兄様はまだ話が通じる方だ。
「……ふん、あの御方の無茶に比べれば、遷都などまだ大人しいものか。だが、中大兄様からの指令だ。貴様には遷都の先遣隊として、現地の近江の状況をリサーチしてきてもらう。もちろん、佐伯の子麻呂も一緒だ」
「えぇー! 俺、まだこの時代の地図も読めないんすけど! 近江ってどこ!? 琵琶湖でバス釣りでもしてろってこと?」
「何を言っているのか分からんが、拒否権はない。もし遅れたら……わかっているな?」
鎌足さんの目が笑っていない。これはガチのやつだ。
俺は隣で「うう……緊張で胃が……」と吐きそうになっている同僚の子麻呂の背中を叩きながら、空を仰いだ。
「ま、なんとかなるっしょ。とりあえず、おやつ持ってっていいっすか?」
俺の能天気な問いかけに、鎌足さんは今日一番の深いため息をついた。
【今回の学習ポイント】
・中臣鎌足とブラック労働: 鎌足は中大兄皇子の右腕として死ぬまで働きまくった、古代日本屈指の「スーパー社畜」だよ。この時期は斉明天皇が亡くなった後のバタバタと、唐が攻めてくるかもっていうプレッシャーで、彼の胃の痛みはマックスだったはず!
斉明天皇は工事好き: 斉明天皇はとにかく大規模な土木工事が大好きで、「狂心の渠」なんて呼ばれる無駄(?)に長い運河を掘らせたりしたんだ。超パワフルな女帝だったんだよ。
近江ってどこ?: 今の滋賀県大津市のこと。当時は「飛鳥から遠すぎる!」って大反対されたんだけど、中大兄皇子は「海路でパッと逃げられるし、防衛に最高じゃん!」って強引に決めたんだ。




