第50話「震撼する難波(なにわ)――逃げ腰の閃き」
「ええい、どけ! 邪魔だ! 早く防衛線を引け!」
港の喧騒は、再会の喜びから一転して阿鼻叫喚のパニックに変わっていた。
白村江での大敗北。その報せが「唐軍が攻めてくる」という具体的な恐怖となって、難波の街を飲み込んでいく。
「海斗様、呆然としている暇はありません! すぐに皇子の元へ!」
不比等の鋭い声で、俺は我に返った。
「え、あ、ちょ、ちょっと待て不比等! 唐が来るってマジかよ!? 冗談抜きで殺されるじゃん、俺ら!」
俺は膝をガクガク震わせながら、不比等の袖を掴んだ。
「……対馬からの狼煙です。おそらく新羅の船が近づいているのでしょう。白村江で我らを破った連合軍が、そのままこの難波まで押し寄せてくる可能性は十分にあります」
不比等の顔は、戦場にいた時よりも青ざめている。だが、その瞳だけはギラギラと冷たく光っていた。
俺たちは車持娘を安全な場所へ避難させると、すぐさま中大兄皇子の仮宮へと走った。
そこでは、すでに軍議という名の怒鳴り合いが始まっていた。
「難波は危険すぎる! 海に面したこの地では、唐の強力な水軍にひとたまりもないぞ!」
「しかし、ここを捨ててどこへ逃げると仰るのですか!」
群臣たちの怒号が飛び交う中、中大兄皇子は一人、沈黙を守っていた。
(……ヤバい、これ絶対ヤバい。教科書に何書いてあったか全然覚えてねーけど、こんな海の目の前にいたら、速攻で狙い撃ちじゃん。俺だったら絶対、もっと山奥に引きこもるわ……)
俺は周囲の殺気に気圧されながら、ボソッと独り言を漏らした。
「……こんなとこにいたら、背後から一突きで終わりじゃん。俺なら絶対、山の上とか、せめてもっと奥地に逃げるわ。」
その呟きを、不比等の地獄耳が拾った。
「……海斗様、今なんと?」
「え? いや、だって怖えじゃん! ここ、遮るもん何もないし。巨大な『壁』でも作るか、山に立てこもるかしないと無理だって!」
俺が半泣きで訴えると、不比等はハッとしたように目を見開いた。
「……壁、と、山……。海斗様、貴様はいつも、本質を突くのが早すぎる」
「え、何が?」
「皇子! 失礼いたします!」
不比等は俺を置き去りにして、皇子の前へ躍り出た。
「難波を捨て、内陸へ拠点を移すべきです! さらに、筑紫には水を湛えた巨大な土塁による防壁――『水城』を築き、各所の要衝には山城を! 点ではなく、面で防衛線を張るのです!」
(……え、不比等、今なんかすごいこと言った? 水城? 山城? 何それ、めちゃくちゃ大掛かりじゃん……)
俺が口をポカーンと開けている間に、不比等の言葉は百済の亡命技術者たちの知恵と結びつき、具体的な「国防プラン」へと姿を変えていく。
その日の夜、難波の街は松明の光で埋め尽くされた。
「おい、もっと急げ! 唐の奴らが来たら終わりだぞ!」
兵士も民衆も、死の恐怖に突き動かされていた。
俺はと言えば、不比等に「海斗様の直感を形にします」と無理やり手伝わされ、慣れない土木作業の図面整理に追われていた。
「……不比等、俺はただ怖くて逃げたかっただけなんだけど」
「それが『防衛』の原点ですよ、海斗様」
不比等は不敵に微笑み、木簡に筆を走らせる。
恋にうつつを抜かしていた数時間前が、遠い昔のことのように思える。
俺が「逃げたい」と漏らした一言が、この国の形を大きく変えようとしていた。
【今回の学習ポイント】
・「水城」:実際に大宰府の前に全長1.2km、高さ10mのバカでかい土手を作ったんだ。しかも、ただの土手じゃなくて水を貯めるお堀付き。現代のダム建設並みの突貫工事だったんだよ。
・「防人」:九州の守備に全国から農民が駆り出されることになる。これが有名な「防人」。家族と離れ離れになる悲しい歌(万葉集)がたくさん残るくらい、当時の人には過酷な義務だったんだ。これが日本最古の徴兵制度だったんだよ。
・「遷都」:難波は今の大阪。海が近くて商売には最高だけど、軍艦が来たら一瞬で終わる。だから中大兄皇子は、山に囲まれた滋賀県の「大津」に都を移す決断をするんだ。今で言えば「首都機能の移転」だね。




