第48話:逃げるが勝ち? 泥沼の帰還フェーズ
「……熱っ! 嘘だろ、まだ燃えてんのかよ……!」
俺は、黒煙が立ち込める船の甲板で、飛んできた火の粉を必死に払っていた。
白村江の海は、俺があやふやに覚えていた記憶よりも、ずっとえぐい地獄絵図だった。唐の火攻めに遭った倭国の船団は、次々と巨大な松明のように燃え上がり、沈んでいく。
「海斗様、呆けている暇はありません! 貴様の仰った通り、予備の船を下げておいて正解でした。さあ、早く!」
不比等が、煤だらけの顔で俺の腕を強引に引く。
「……あ、ああ。分かってる……」
正直、頭の中は真っ白だ。この先の日本がどうなるとか、そんな難しいことは一ミリも考えられない。
(……帰りたい。とにかく生きて日本に帰って、車持娘に会いたい。あいつ、心配して泣いてないかな……)
そんな情けない願いだけが、今の俺を動かす唯一のガソリンだった。
隣では、中大兄皇子が血の気が引いた顔で燃える海を見つめていた。その手は、悔しさで白くなるほど刀の柄を握りしめている。
「……私の判断が、これほどまでの屍を晒すことになるとは。この海を染めているのは、すべて我が民の血ではないか……」
「皇子……」
「黙れ、海斗。……情けない姿を見せた。だが、この負けを無駄にはせぬ。一兵でも多く、生きて対馬を越えさせるぞ」
「……はい! その通りですよ!」
俺たちは、燃える艦隊を背に、這う這うの体で対馬海峡へと逃げ出した。
教科書ではたった数行の「敗戦」だけど、波に揺られるボロ船の中、いつ追っ手が来るか分からない恐怖は、現代のホラー映画よりもずっと心臓に悪かった。
「はぁ……。あー、マジで死ぬかと思った……。不比等、日本に着いたら、まずは飯な。うまい飯、腹いっぱい食おうぜ……」
俺が力なく呟くと、不比等は少しだけ呆れたように、でも優しく微笑んだ。
「そうですね。貴様の無事を確認したら、車持娘様もさぞ喜ばれるでしょう」
「……だよな」
俺は、遠ざかる戦場の火を眺めながら、ただひたすらに日本の土を踏む瞬間だけを夢見ていた。
【今回の学習ポイント】
・白村江での壊滅:倭国の水軍は、唐の「火攻め」と「大型船」の前に手も足も出ず、4回にわたる攻撃ですべて返り討ちに遭ってしまったんだ。
・亡命百済人の渡来:この時、日本を助けていた百済の貴族たちがたくさん日本へ逃げてきた。彼らが持ってきた最新技術が、後の日本の城作りに役立つことになるよ。
・対外危機の到来:負けたことで「次は唐が攻めてくる!」というパニックが日本中を襲った。これが、都を移したり、防衛線を張ったりする大きな動機になったんだ。




