第十二話
襖を開けると、一人の小柄な女性が正座していた。
彼女が黒猫さん、佐助さんの奥さんである。
彼女の経歴については打ち合わせの際に何度か聞いた。真田の忍びで、関ヶ原の戦いまでは真田随一の毒茸の専門家、活動拠点を畿内に移してからは、河豚毒の研究を始め現在に至る。その経歴から考えて、若くても三十代後半だと思っていた。
実物は僕の予想を大きく裏切った。三十代後半?とんでもない。二十代前半、見方によっては十代後半に見える。真田の忍びは若返りの秘薬でも使っているのか。
「真田大助さま、此度はご配慮いただきありがとうございました」
黒猫さんは深々と頭を下げた。
「あの、黒猫さん、僕は何もあなたにお礼を言われる様な事はしていませんよ」
「何をおっしゃいますか。昨夜の毒見の担当を淀の方様から秀頼様に変えていただいてくれたおかげで、私は退却する際の危険がなくなりましたし、旦那に負担をかけずに済みました。第一、私は生きております。大助さま、これは全てあなたのおかげです」
「そんな善意に解釈されなくても結構ですよ。徳川の妨害があるのは決定的でした。我等の計画を上書きして狙う対象は秀頼公である可能性が極めて高い、と思いました。虎の子の毒見役を秀頼公に廻すのは当然じゃないですか。僕の手柄でもないですよ」
それに今回は敵の忍びに助けられた側面が強く、とても褒められたものではない。例を言われるなんて、気恥ずかしい限りだ。
見ると、黒猫さんは両手をついて頭を下げていた。僕は黒猫さんの腕を持って言った。
「さ、頭を上げて下さい・・・」
突然、黒猫さんは僕の両手首を掴んで、両手を自分の胸に押し付けたのだ。
「な、な・・・」
「ふふふ。大助さま、御存知でしたか?女の胸って、柔らかいでしょう」
慌てて彼女の手を振りほどいた。そして何とも言えない気持ちで、彼女の胸の温もりの残った手のひらを見ていた。
「ちょ、ちょっと黒猫さん、何をしてるんですか?」
黒猫さんはいつの間にか服を脱いでいた。最後の下帯も外そうと結び目に手をかけていた。
「折角ですので、大助さまの筆下ろしを済ませようと思いまして。心配なさらなくていいですよ。お姉さんの言う通りにすれば、すぐに終わりますから」
全裸の黒猫さんがにじり寄って来る。二つの膨らみの頂点にある桃色の乳首はツンと立っており、下の茂みは黒々と自己主張していた。
「どうしてそれを・・・」
「旦那が言っていました。どうやら大助さまは女を知らないらしい、と」
いつの間に佐助さんにバレたんだ?心あたりが全然ない。
丸裸の黒猫さんともつれ合いながら、なんとか彼女の両肩に服を掛けた。
「・・・とにかく僕は、そーゆー事は好きな人以外とは致しませんので」
息も絶え絶えに僕は言った。すると、黒猫さんは肩にかけた上着の左右を合わせて(谷間を強調して)涙目になりながら言った。
「私の事嫌いなの?」
「だからそーゆー事じゃなくて。あなた、人妻でしょ」
「ああ、その点なら大丈夫。旦那から、大助さまなら一、二回は構わない、っていうお墨付きをもらっているから。だから、やる?」
「そっちが構わなくても、こっちが構うんです」
「じゃあ旦那と別れるから、やろうよ」
絶句。二の句が告げない。
駄目だ。この人ぶっ飛び過ぎててついて行けない。
「ははは。冗談よ冗談。でも、やりたくなったら旦那を通じて言ってね。何でもしてあげる」
どの面下げて旦那に「奥さんとやりたいんです」って言うんだよ。
「それでは大助さま、また会いましょうね」
それだけ言うと、黒猫さんは風のように消えた。
僕が部屋に戻ると、佐助さんが申し訳なさそうな表情で立っていた。
「・・・あの、大助さま、・・・何と言うか・・・申し訳ありません」
「奥さんと仲良く暮して下さい」
実直そうな佐助さんと奔放な黒猫さん、どうして結婚してるんだろ。性格も全然違うのに。
四天王寺。
聖徳太子創建の日本最古の寺院である。
周辺には参拝客目当ての飲食店、土産物屋、宿屋が林立している。
一軒の宿屋に一人の男が逗留している。
本多正純である。
この男は馬を替えながら走りに走り、わずか五日で大坂までの東海道五十七宿を走破していた。
ここには参拝客に扮して滞在していた。
利点としては、観光地特有の警戒感の薄さもあるが、何よりも大坂城との近さにあった。
大坂城天守より僅か一里。この距離に諜報活動の拠点を築いていた。
城内の出来事が時間差無しに入手出来る体制が構築されていた。城下の住人達の噂話や、言葉にならない雰囲気までも正確に掴んでいた。
正純は配下の者から、大坂城での昨夜の顚末について報告を受けた。
あの女が死んだか。ようやくではあるが狼が野に放たれたか。ちょっと遅かったな。既に彼我の差はとんでもなく開いて、盤面をひっくり返す事は不可能だぞ。
真田大助。どうやら毒見の担当を入れ替えて、秀頼の命を守った様だな。しかし、我等の忍びをおめおめと取り逃すのは、警戒感が足らない証、つまり経験不足だ。しばらくは御前の策を見逃してやる故、私と知恵比べが出来る領域まで早く上がって来い。
本多正純は雨戸と障子を開け、大坂城の天守閣を見た。そして程なく始まるであろう豊臣秀頼・真田大助との戦いを想像し、ほくそ笑むのだった。




