第9話 顔
浮世さんがそう告げた途端、周囲に白い霧が湧き上がった。
じわじわと辺りを呑み込んでいく。
兵士たちも、何が起きたのかわからないまま動きを止めた。
足元に、水が満ちてきた。
澄んでいる。
すねまでしかない。
なのに見下ろせば、その下には底知れない青黒い深みが広がっていた。
不意に後ろから襟首をつかまれた。
振り返ると、ルフィーナだった。
「ルフィーナ……! 平気なの!?」
服には、剣で貫かれた穴がいくつも残っていた。
「あとだ。ここを離れる」
帽子のつばを下げた。
水面から目を背けたままだった。
水面に、何か白いものが浮かんでいた。
顔。
白い顔が、いくつもあった。
どれも目を閉じ、顔立ちも表情もまったく同じだった。
顔だけだった。
身体がなかった。
「円満」
セシリーが低くつぶやいた。
「円満」
「円満」
「円満」
兵士たちも、一人、また一人とつぶやいた。
「円満」
すぐそばからも聞こえた。
どういうわけか、心が静かだった。
安心さえ覚えていた。
「誰……?」
「お前」
襟首をぐいと引かれた。
ルフィーナの背から炎の翼が噴き上がり、ぶわりと広がった。
……あたしが?
「円満」
ルフィーナの唇が動いた。
はっと口を押さえた。
あたしをつかみ、一気に空へ飛び上がった。
「ルフィーナ! セシリーちゃんも連れてって!」
「ちっ」
すぐさま地上へ舞い戻り、セシリーの襟首もひっつかんだ。
あたしたちを宙にぶら下げたまま、濃霧の中を飛んだ。
倉庫のそばに降ろされた。
壁の穴のすぐ向こうに、マーヤーちゃんがいた。
「マーヤーちゃん! なんでここにいるの?」
「ここなら、状況を観察できます」
浮世さんのいる場所は、ここからそう遠くない。
それでも、この辺りには目を閉じた白い顔がひとつも浮かんでいなかった。
水はまだ、足元を浸していた。
「あ、そうじゃなくて……」
「マーヤーは撤退判断を撤回しました。しかし、人類擬態モジュールがエラーを返し続けています」
ルフィーナがうなずいた。
「うちの本能も、離れろって叫んでる」
「え……? 私、どうしてここにいるんですか?」
セシリーが、はっと周囲を見回した。
そのとき、濃霧の奥から、異様な音が聞こえてきた。
ぎい。
ぎい。
ぎい。
霧の中を、黒い影がゆっくりと浮世さんのほうへ近づいてきた。
浮世さんは立ち上がり、影に向かって恭しく頭を垂れた。
不意に風が吹き抜け、濃霧が大きく割れた。
焚き火の明かりに、その輪郭が浮かび上がった。
小舟だった。
舟の中央には、小さな木造の屋形が据えられ、その入口をぼろ布の幕が覆っていた。
綿帽子をかぶり、喪の衣をまとった骸骨が、船尾で長い櫂のようなものを操っていた。
船首には、苔むした注連縄を巡らせた木枠の井戸があった。
舟はゆっくりと浮世さんへ進み、すぐそばで止まった。
「なんだあれ!?」
「術師! 火球術と雷撃術はまだか!」
兵士たちはようやく我に返り、慌ただしく武器を構え直した。
「ふん。所詮はこけおどしだ」
兵士たちの中から、エドガーが猛然と飛び出し、白い雷をまとった長槍を手に、浮世さんめがけて突き進んだ。
けれど、小舟へ近づくにつれ、足取りは鈍っていった。
行く手を阻むものなど、どこにもないのに。
その顔から、険が消えていった。
何もかも悟りきったような、ひどく遠い目をしていた。
やがて、歩みが止まった。
長槍が手から落ち、水に沈んで見えなくなった。
「還ってきた」
小舟の前にひざまずき、両手をついてひれ伏した。
顔まで水に沈めた。
小さな泡がぽつり、ぽつりと水面に浮かんだ。
やがて泡も途絶えた。
両腕から力が抜け、身体がゆっくり水面に浮いた。
水面が静まった。
次の瞬間、水底から何かがエドガーをつかみ、一気に引きずり込んだ。
エドガーは消えた。
「な、なんだ……っ!」
「た、隊長――!」
逃げようとする者。
武器を投げ捨て、降伏しようとする者。
それでも、誰ひとり霧の中へ逃げ込もうとはしなかった。
霧の奥から、笙らしき音が響いてきた。
ふぉ――
ふぉ――
ぼろ布の幕の奥から、何かがからんと音を立てて滑り出た。
浮世さんはそれを左の袖で受け止め、袖越しに右手をそっと添えた。
神楽鈴だった。
幕の奥に向かい、もう一度深々と頭を垂れた。
兵士たちへ向き直り、半歩退いた。
鈴を胸元に構え、下へ向けた。
「御鈴の音よ」
鈴を胸元からゆっくり額の前まで掲げた。
低く響く笙らしき音に合わせ、前へ小さくひと振りした。
「この世に鳴り渡り給へ」
しゃん。
兵士たちはもちろん、あたしまで神楽鈴に視線を吸い寄せられた。
どうしても、目を逸らせない。
ふいに身体をぐいと引き寄せられた。
その途端、神楽鈴に縫いつけられていた視線がふっと外れた。
「あの顔に見られるな」
ルフィーナの低い声が、背後から聞こえた。
背中に、ひやりとした体温。
「顔に……?」
ふぉ――
「目を閉ぢたる面よ」
浮世さんは鈴をゆっくり胸元へ下ろし、左袖で口元を覆い、目だけをのぞかせた。
「見そなはし給へ」
ゆるやかに舞いながら、左足を斜め前へ半歩滑らせた。
兵士たちの動きが一斉に止まった。
みな虚ろな目で、神楽鈴だけを見つめていた。
浮世さんは左袖を下ろし、すっと身を正した。
右手の鈴を、胸元に構え直した。
「己が名」
鈴を右下へ払った。
左袖がふわりと上がった。
鈴が、かすかに鳴った。
水面のあちこちに小さな波紋が生まれ、舟へ向かって寄っていった。
兵士たちの目から、すっかり光が消えていた。
「己が心」
鈴を左下へ払った。
鈴がかすかに鳴った。
ぎい。ぎい。
小舟がわずかに沈み、ゆらりと浮き上がった。
また沈み、また浮き上がった。
「遠つ方へ退き給へ」
鈴を前へ押し出した。
しゃん、と鳴った。
井戸の奥で、立て続けに何かが水に落ちる音がした。
「この身を返し」
浮世さんは右足を斜め後ろへ一歩引いた。
鈴を低く垂らしたまま、水面すれすれをゆっくり横へ払った。
「水の御手へ渡し給へ」
霧の奥で、あの笙らしき音が短く鋭く鳴った。
兵士たちは次々と、両腕を胸の前で交差させた。
身を反らし、そのまま後ろへ倒れていった。
激しい水しぶき。
上を向いた顔は、どれも不気味なほど白かった。
「この面を世に留め」
鈴を胸元へ戻し、左袖で受けた。
「祓ひの形代と成らしめ給へ」
両足を揃え、兵士たちに向かって深く頭を垂れた。
兵士たちの身体が、同時にぐいと下へ引きずり込まれた。
しばらくして、水面に何かがいくつも浮かび上がってきた。
目を閉じた白い顔が。
どれも目鼻立ちまでまったく同じだった。
ぎい。
ぎい。
ぎい。
小舟は濃霧の向こうへ去っていった。
浮世さんはその場に立ったまま、にこにことあたしを見ていた。
「お姉さんは、お役に立てましたか?」
「うん。ありがとう、浮世姉さん」




