第7話 女性向けの護身術
「――っ!」
喉に触れた剣先が、ほんの少し食い込んだ。
血が首筋を伝った。
息を吸えば、喉が切れそうだった。
後ろ手の指先で、ポケットの縁を探る。
角ばった硬さが、まだそこにあった。
スマホ。
手は縛られている。
指先の感覚は、もうほとんどない。
縄で擦れた手首だけが、じんじん痛んでいた。
何度も指を滑らせながら、ポケットの奥からスマホをずるりと抜き出す。
二本の指で、どうにか挟んだ。
残った力を指先に込め、床へ叩きつけた。
かつん、と硬い音がした。
「……なんだ、これは」
兵士が、片手でスマホを拾い上げた。
「左下にある、小さい印みたいなところ……指で触ってください」
「あ? ……お、おおおっ、なんだこれ!」
ぱっと白い光が灯った。
松明の赤い揺らぎが薄れ、倉庫の暗がりが一歩引く。
きらきら光る金貨でも拾ったみたいに、手の中でそれをいじり回していた。
兵士は画面から目を離せない。
剣先だけは、まだ喉に触れたままだった。
「それ、あげます。持っていっていいですから」
「……」
兵士は、スマホと、縄で縛られたあたしたちの手首を見比べた。
剣先が離れた。
スマホを握ったまま、倉庫の外へ出ていく。
「おい――! 見張りなんかいい、こっち来い! すげえもんだぞ!」
外が、兵士たちの声でざわついた。
武器に見えなかったから、見落とされただけ。
「ありがとうございます、白石……さん」
セシリーは涙をためたまま、小さく頭を下げた。
「ううん。真織でいいよ」
「はい……まおりさん」
次はどうする。
このままだと、わけもわからないまま帝国送りだ。
術はもう使えない。
浮世さんが起きれば、何か大がかりな儀式ができる。たぶん。
けれど、肩の重みは動かない。
「はぁ……マーヤーちゃん……」
起きてくれたらいいのに。
だめなら、セシリーに縄を解いてもらうしかない。
「マーヤーがどうかしましたか」
声に、息が止まった。
振り向く。
マーヤーちゃんが、じっとこっちを見ていた。
「マーヤーちゃん!」
「なぜ、現地人に拘束されているのですか」
縛られた手首をひねった。
「赤毛ゴリラは、どこですか」
「ルフィーナは……」
「……?」
「もう……死んだ」
「何をおっしゃっているのですか。死んでいません」
両目が、一瞬で緑に変わる。
「二十メートル先の馬車に横たえられています。生体反応あり。ただし、頭部は胴体から切り離されています」
「生きてるの!? 頭、切られてるの!?」
「はい。搬送上の都合と推測されます」
それでも、生きてる。
あたしたちを助け出してくれるかもしれない。
「マーヤーのパジャマ、ぼろぼろです。現地人は、マーヤーに何をしましたか」
「ええと……それは……」
「……赤毛ゴリラですか」
あたしをまっすぐ見た。
「いや、その……」
「マーヤーは、あのゴリラに文句を言ってきます」
ぱん、と乾いた音がした。
枯れ草でも折るみたいに、麻縄が千切れた。迷わず扉へ歩いていく。
いやいやいや。
先にこっちも解いて!
「ま、待ってください……! 外へは、行かせません……!」
セシリーが震える手で短剣を抜き、マーヤーちゃんの背中へ向けた。
「……」
マーヤーちゃんが、表情ひとつ変えずに振り返った。
「マーヤーはいま、いらいらです。そのうえ、あなた方はマーヤーを誘拐しました」
片手を伸ばし、短剣の刃を素手でつかむ。
ぎち、と嫌な音がして、刃が手の中でひしゃげた。
「――ひっ」
セシリーはその場にへたり込んだ。
「マーヤーがあなた方を殲滅する理由は、十分にあります」
「待って、マー――」
「お静かに、白石真織。マーヤーは、あなたに失望しています」
「……?」
「幸御禍津は、白石真織にだけ明らかに態度を変えていました。あなたは、他の二名よりも機転が利きます。なのに、なぜマーヤーを保護できなかったのですか」
「こっちは精いっぱいやったんだけど!?」
「あなたの『精いっぱい』では、不十分です。白石真織は、ただ優しいだけの人間ではないはずです」
「……え? あたしたち、前にどこかで会ってる?」
どがん。
壁が震えた。
黒い影が倉庫へ突っ込み、そのまま奥の壁に叩きつけられる。
ぶち抜かれた壁の穴から、月明かりが差し込む。
さっきスマホを持って出ていった兵士だった。
腹を貫いた自分の剣で、壁に縫い止められている。
胸に穴が空いていた。
心臓だけが、なかった。
身体には、まだ深紅の火が残っていた。
焦げたところを避けるように、焼けていないところへ広がっていく。
セシリーはまばたきもせず、兵士だったものから目を逸らさなかった。
怯えも恐怖も、顔から抜け落ちていた。
外が、騒がしくなった。
「ひ、ひぃぃぃ――! 死、死体が立った! 自分の首をつなぎ直し――」
「何を馬鹿なことを言ってる! あの女はとっくに――え? ああああああっ!」
「……うちの首を落としたのは、だれ」
「防御陣形を取れ! エドガー隊長を守れ!」
「お前か。騎士」
どんっ!!
地面が跳ね、倉庫ごと揺れた。
「術師と治癒士は何をしている! 防御術を張れ!」
「火が……助け……」
「うろたえるな! 相手は一人だ! 狙いはエドガー隊長だ!」
マーヤーちゃんは穴の向こうを一瞥し、壁に縫い止められた兵士から剣を引き抜いた。
兵士だったものが、床に落ちる。
深紅の火が、焼け残りを舐めて、消えた。
血と焦げた肉の臭いが混ざっていた。
ひどいにおいだった。
マーヤーちゃんが戻ってきて、剣を振るった。
あたしと浮世さんの手首を縛っていた麻縄が、続けざまに切れた。
「浮世ナナシ。寝たふりは、いつまで続けるおつもりですか」
無表情のまま告げた。
「んー……あら、見抜かれてしまいましたか」
肩にかかっていた重みが、ふっと抜けた。
浮世さんは何事もなかったみたいに身を起こし、ゆるりと伸びをした。
「わたくしを治してくださって、ありがとうございます、セシリーちゃん。魔法まで、本当にあるのですねえ」
「いえ、浮世……さん。私、初級の術くらいしか使えなくて……」
ちょっと。
浮世ナナシ。
「浮世さん……起きてたなら、あたしひとりにあの兵士を相手させないでくださいよ」
「本当に危なくなったら、手をお貸ししますよ〜。ただ、まおちゃんがどこまでなさるのか、少し見届けてみたくなりまして」
「あれでまだ緊急じゃなかったんですか!?」
「あの、まおりさん」
セシリーが、おずおずとこちらを見た。
「ん? なに?」
「家に害虫が出たら……出てきた分だけ潰しますか? 巣ごと、なくしますか?」
「えっと……巣ごと、かな」
急に、なんの話。
「そ、そうですよね……! 私だけが、おかしいわけでは……ないんですね」
息をつき、崩れた壁の穴へ顔を向けた。
外では、小柄なルフィーナの姿が動いていた。
一人で、兵士たちを相手にしている。
「あの方も、まおりさんたちの……いえ、私たちの親友なんですよね」
セシリーの視線が、あたしへ戻った。
「私、皆さまを助けました。だから今度は、私のお願いも、聞いてくださいますか」
「なにを?」
「あの人たちを……全員、駆除してください」
セシリーは胸の前で指先を合わせたまま、静かに笑った。
「……え?」
「わからないのですか」
袖をそっと引き上げる。
紋様だけじゃない。
目をそむけたくなる傷痕が、いくつも残っていた。
「まおりさんは、巣ごとなくすほう……なんですよね?」
「駆除など、わたくしにはできませんけれど」
浮世さんが、そっと傷痕に触れた。
袖口が、指先に押されてゆっくり落ちていく。
まぶたを閉じてやるみたいに。
「きれいにして差し上げることなら、できますのよ」
「きれいに……?」
「ええ。永遠に」
にこりと笑った。
直後、地面がまた激しく揺れた。
「血を吸ってるぞ! 忌々しい化け物め!」
「隙だ! 弓兵、撃ち落とせ!」
外の怒号が、さらに大きくなる。
崩れた壁の穴のそばまで寄り、外を窺った。
ルフィーナの背中から、紅蓮の炎が二筋、翼みたいに噴き上がっていた。
宙を舞い、伸ばした炎で兵士たちを薙ぎ払う。
そこへ、光の矢が雨みたいに降り注ぐ。
その矢は、炎の翼に触れた端から燃え上がっていく。
けれど、相手は百人以上。
近づけば、エドガーみたいな技。
離れれば、強力な魔法――いや、向こうの言う術が飛ぶ。
セシリーみたいな支援役まで、十数人もいる。
兵士たち全体の動きが、目に見えて速い。
押されているのはルフィーナのほうだった。
「ルフィーナさんのほうは、少々……よろしくありませんねえ」
浮世さんが、案じるように頬へ手を添えた。
「マーヤーの残存エネルギーでは、戦闘時間は合計三分が限界です」
「うーん……どういたしましょう……」
二人が同時にあたしを見た。
胃が重い。
ルフィーナは飛べる。
その気になれば逃げられるはずなのに、退かない。
やるしかない。
無茶の種類が変わるだけだ。
「……浮世さんの儀式って、準備にどれくらいかかりますか?」
「十五分ほど、でしょうか」
十五分。
マーヤーちゃんは三分。
――そうだ。
治癒術なら、マーヤーちゃんにも効くかもしれない。
さっきみたいに。
「セシリーちゃん。マーヤーちゃんに治癒術、あと何回いける?」
「治癒術だと、もう……一回分くらいしか残っていません」
一回なら。
「マー――」
「却下します。ゴリラと連携しても、数が多すぎます」
はあ。
詰んでない?
「セシリーちゃん、支援術は? あたしたちにも、かけられる?」
「お一人だけなら……」
あたしが前に出て、マーヤーちゃんに隙をカバーしてもらうしかない。
使える時間は、三分だけ。
「防御術は?」
「初級なら、使えます」
どこまで防げるかはわからない。
ないより、ずっといい。
「支援術と防御術を切り替えて、十五分もたせられる?」
「……たぶん。持たせます」
いけるかもしれない。
「不可能です。ガーンです」
マーヤーちゃんは、かすかに眉を上げた。
「ほぼ自殺行為です。マーヤーが即応支援に回ったとしても、白石真織の身体能力では十五分もちません」
「そうするしかないでしょ!」
「白石真織の筋繊維は、スライドガラスよりも脆いです。準備運動だけで、もう寝たくなっているのではと疑っています」
「女性向けの護身術なら、何回か習ったことあるから!!」
「……」
また、ピエロだった。
「思わぬ効き目があるかもしれませんわね」
浮世さんが、そっと手を合わせる。
「詳しくは存じませんけれど、護身術は、こちらの方々には想定外なのでは?」
「女性向け護身術の基本は、拘束離脱と逃走です。前者は、この状況ではほぼ無意味です。敵は掴んできません。殺しにきます」
「……もし、後者だったら?」
「後者、ですか?」
「うん」
思いついた作戦を要点だけ伝えた。
聞き終えた三人が、そろって固まった。
「……本当に、よろしいのですか、まおちゃん」
「マーヤーは帰還したいです。失敗した場合、単独で撤退します」
「それでいい。お願い、浮世さん、マーヤーちゃん」
「負けたら……私、また帝国へ戻されるんですよね? 嫌です……あそこには、もう……!」
セシリーが、震える手であたしの手をつかんだ。
「あたしまだ死ぬつもりないよ。みんなを道連れにもしない」
そっと、握り返した。
セシリーが、はっと目を見開いた。
「まおりさんも……震えているんですか?」
「……そう、みたい」
平気なふりをしても。
それっぽいことを言っても。
死。
それだけが、どうしても消えてくれなかった。
「ご自分が何をしようとしているのか、わかっていらっしゃるのですね」
浮世さんの手のひらが、頬に触れた。
「感じますか?」
「うん……ちゃんと、あったかい」
「その温度を、忘れてはいけませんよ」
頬に残る、生きている温度。
そのすぐ外に、冷たい戦場。
喧嘩だって、したことがない。
人なんて、殺したことがない。
それでも今から、あの兵士たちの前に出る。
女子高生として。




