あらかじめ処理しておいた婚約破棄ですわ
「ジョヴァンニ様!」
「今日も来たの……?」
「ジョヴァンニ様が許可をくださるなら日参いたしますわ!」
「…………そう」
昨日よりは顔色が良くなられたジョヴァンニ様は、それでも朝だというのにずいぶんと疲れたように頷かれました。
そして身を起こされていたベッドの中に、もぞもぞと戻ってしまわれました。
ですので私は、少し離れた場所に置かれていた椅子を持ってくることにしました。ベッドの横に座り、軽く肺呼吸を整えます。
「……ジョヴァンニ様は、私に甘えたかったんですの?」
ジョヴァンニ様は一度真ん丸な目で私を見たあと、天井を見上げられてから、その美しい瞳を瞼の奥に隠してしまわれました。
「……そうだよ」
笑うような吐息のあと、肺の中の酸素をすべて吐き出してしまわれるかのように、ジョヴァンニ様は静かにお話しされました。
「がっかりしただろう? 呆れただろう? 出来が悪いくせに、できないと自分から言いたかったんだから」
私は全身全霊で傾聴姿勢を取りました。ジョヴァンニ様は目を閉じられているので、咎められませんでした。
「……俺は、もう何もしたくないんだ。できないから。間違うから」
「いいえ、王太子業務は及第点以下でも、そのへんの貴族のお仕事程度はできそうですよ?」
さすがに重大な誤解を含んでいそうな内容を指摘すると、ジョヴァンニ様は長い睫毛を震わせて、私を見てくださいました。
「……君って本当に……」
眉を寄せて、それでもジョヴァンニ様は微かに微笑んでくださいました。
「今日は、また熱が出てきたから、やらないよ」
「では看病しますね!」
「……帰らなくていいの?」
私は一応ベリザリオ様のことを思い出しました。
「……まあいいでしょう。ジョヴァンニ様よりも優先すべきことなんてこの大地にありませんわ」
ええ、ジョヴァンニ様が目の前にいらっしゃる以上、ベリザリオ様のことがやんわりと記憶の彼方に流されていくのは、仕方ないことですね。忘れましょう。
「……だったらベリザリオなんか捨てて、俺と同じ位置まで落ちてこればいいのに」
——え?
いま……ジョヴァンニ様は、なんと仰いましたか?
一字一句聞き流すつもりがなかった私の認知能力を超えられてしまわれたジョヴァンニ様に、私は目を見開いて息を止めました。
「……冗談だよ。面白くなかっただろうけど」
耳の奥でざあざあと流れる海のような血流の異音に紛れて、ジョヴァンニ様は泣きそうな声で呟かれました。
「……ジョヴァンニ様って」
くらくらと立っていられなくなった私は、世界が更新される音を聞きました。
「……天才なのでは?」
「は?」
へなへなと、ジョヴァンニ様の前だというのに床に座り込んでしまった私の身体が、窓の外から差し込む光を浴びて、ふわふわと泡に包まれました。
ええ、ようやく理解したのです。
これが————真実の愛というもの——!
「し、シレネッタ? 死ぬな、えっ、消えっ?」
飛び起きたジョヴァンニ様が、珍しく私に向かって焦ったように手を伸ばしてくださいます。嬉しいです! 今なら泡となって消えても構いません!
ですが!
「消えません! シレネッタは進化しました!」
「うわっ……」
私はすっくと立ち上がり、そう宣言しました。ジョヴァンニ様は驚かれてしまったらしく、ベッドに下がっていかれてしまいました。
「ど、どう変わったんだ?」
「王子様のためでなくても、私のために陸に居続けられるのですわ!」
そう。とても簡単なことなのです。
私とて——病める時も健やかなる時も富める時も強き時も海にある時も大地にある今も、存分にジョヴァンニ様を追えば良いのです!
「私、王太子妃になるのは辞めます!」
「えっ」
「だって、別にジョヴァンニ様に王太子と同じ生活をさせなければならないわけではなかったのですよね? だったら、私も、最高峰の権力なんて必要ありませんわ!」
「……ええと、つまり何?」
「私は、これからジョヴァンニ様のもとに、好き勝手に毎日通うことにいたします!」
「…………………………え」
「私、けっこう深く沈めるのですわよ! 陸でだって!」
そう、私も学んだのですよね。
王権に偏りすぎですよ、この国。
削りましょう。
つまり、手始めに、海の王家を後ろ盾として王国に嫁ぐ予定だった私を。
というわけで、私は国王陛下と話し合い、私の母方の祖国である海妖帝国の内政干渉の撤回を条件に、ジョヴァンニ様の結婚禁止を撤回することと、幼馴染の婚約者と結婚したものの田舎で暇を持て余していらっしゃるアヴェルラ様を寵姫として王宮に召し上げることを約束していただきました。
まあ、海妖帝国側からの内政干渉なんて、どうせ五千年も保たない国をどうにかしたいわけでもなく、単に私が何かしたいなら名前を使っていいよというだけのものでしたからね。
結局のところ……ジョヴァンニ様に王太子の素質がなかったということさえも、人間が勝手に定めた水準の上に顔を出せた者であるかどうかなのでしょう。
おそらく一人の王や王太子に求めすぎなのですよ。
そしていつかはジョヴァンニ様のような能力の方でも、気を負わず暮らせる世の中に!
いずれは民主主義というものに移行するかもしれませんね。
……ジョヴァンニ様は大地が崇めるべきであり、庶民的な暮らしをせずに、何不自由なく贅沢していただきたいので、今世ではやりませんが!
翌週、主に若い世代を集めた夜会にて。
王太子の婚約者としてしなければならない全ての準備を終わらせた私は、うきうきと中央に進み出て、高座にいるベリザリオ王太子殿下を見上げました。
「本当にやるのか……?」
「はい! これは私の夢を叶えるチャンスです! 協力してくださいませ!」
「……はぁ」
ベリザリオ王太子殿下は、一瞬露骨にだらしない姿勢になり、それから一応真っ直ぐに立つと、私の用意したカンニングペーパーを堂々と開かれました。
「……えー、悪女シレネッタ。貴様との婚約を破棄することをここに宣言する」
「罪状をどうぞ!」
棒読みですがもう構いません!
「さる高貴な淑女……お前ほんと図々しいな……からのタレコミである。シレネッタは、廃嫡された元王子ジョヴァンニのことが忘れられず、毎晩彼の枕元に通っては、一晩中愛を確かめ……うぇ、お前なんっつう見栄張ってやがんだ」
「見栄? 私はただ、毎晩ご訪問した結果、ようやく『シレネッタは可愛いよ』と言ってもらえたところですが……」
「あー、確かめただけか。確かめ合ってなかったか。そりゃそうだ」
「? 私だってジョヴァンニ様には毎日素敵であることを告げることに致しま」
「えー、このような不貞……不貞か、これ? まあ密会ではあるな……」
聞いてくださいジョヴァンニ様、ベリザリオ王太子殿下が話を聞いてくださいません。まあいいですが。
私が膨れている間にも、ベリザリオ王太子殿下は覇気のない声で呻かれております。
「いや、恐怖の都市伝説系承認欲求極大女事案を強行した者に、王太子妃となる資格はない。……なあ、こんな阿呆みたいな理由での婚約破棄の前例なんか作られたら困るんだが?」
「密会で婚約破棄は普通では?」
「しょぼいんだよ密会の程度が……」
「そうでしょうか」
「頻度は気持ち悪いからいいか……はぁ……どっちかというと——性格の不一致により、婚約を解消する!」
めちゃくちゃ大声で叫ばれたわりに何やらご不満のようですが、私はもはやそんな些末など気にしていられませんでした。
「やったあぁっ!」
「おい大っぴらに喜ぶな、俺がまた勘違い男みたいに思われるだろ!」
「申し訳ございません、つい」
うっかり飛び跳ねてしまいましたね。
「とはいえこれまで次期王太子妃としての功績は素晴らしいものだった。そして俺は今後、正妃を娶らないことを宣言する。よってシレネッタには、王太子妃候補から退いてからも、王宮で働いてもらうこととする。なお、王太子妃候補時代とは違い、融通はないものと心得ろ」
「えー!」
ブーイングを飛ばすと、ベリザリオ王太子殿下は譲歩してやると言わんばかりの表情で言いました。
「ジョヴァンニと空いている離宮に住んでいいから」
「やったー! 私、青波宮がいいですわ!」
「ジョヴァンニにも聞いてやれよ」
「…………」
私は真顔になりました。
「なんでいまダメージ受けた?」
「……ジョヴァンニ様、カリーナ様になら『どこでも君の好きなところで良いよ』って、言ってくださった気がしまして……」
「アイツそんなに建物にこだわりあったのか?」
「私だと、『どうせもう決めてきたんだろ』って言われる気が……」
「自業自得の事実じゃねぇか」
はい。
ですが私にも言い分はございます。あるんです。けしてジョヴァンニ様を蔑ろにしたかったわけではなく。
「だって青波宮が、一番ジョヴァンニ様がお寛ぎになれる場所だと思って……」
あそこは離宮で一番設えが穏やかで上質で風の通り抜けも良く温室も大池もあって、ジョヴァンニ様が寛ぐのに最適で……。
「あー……もうさっさと退出しろ。わかったから」
こうして私は半泣きのまま、婚約破棄を言い渡された王太子殿下に手で払うようにして、夜会を追い出されました。
ぐすん。ベリザリオ王太子殿下、話を聞いてくださいませんが、話は早いんですよね。




