これが真実の愛の味……?
というわけですので、私はその足でジョヴァンニ様の屋敷へと走りました。
「ジョヴァンニ様! 私との婚約が再成立しましたわ!」
「……えっ、なんで?」
部屋着でお寛ぎだったらしいジョヴァンニ様は、もうベッドで寝込む姿を散々見られたしと、最近は完全に開き直られてしまわれました。つまり、なかなか正装姿をお見せくださらないのですが、今のゆるっとしたお袖のリボンシャツとシンプルなテーパードパンツだけでのんびりとされているお姿も、大変可愛いのです!
ですがそれどころではない……わけないですね、ジョヴァンニ様の可愛らしいお姿よりも重大なものが、この世にあるはずもありませんし。
「……シレネッタ? 今度は何をしてきたの……?」
「あっ。そうですわ、見惚れている場合ではございませんでしたわ! 私、ベリザリオ殿下に婚約破棄……ではなく、解消されましたの! 二度も婚約解消された令嬢は、さすがに格落ちですわ! これで廃嫡されたジョヴァンニ様にも嫁げます!」
「……あ、そうなんだ……」
「ご自分のことですのよ? ちゃんと考えてくださいませ」
「……うん……」
なぜ今後ろ足を一歩引かれたのです?
私が一歩進むと、ジョヴァンニ様は、私から視線を外してソファのほうに歩いていかれました。
「それで、ベリザリオ殿下に、青波宮を……あ、いえ、どの離宮でも良いそうですが、私が今後も王宮で働くことを条件に、住まわせてくださるそうですわ!」
「……それは、君がベリザリオ殿下のお手つきになるという意味ではなく?」
振り返ったジョヴァンニ様が、なんだかイカを噛み切れないときのような可愛らしいお顔をされていたので、私は全力で首を横に振りました。
「まったく違いますわね! 今から王太子妃を見繕うのは無理というか面倒なので、婚約解消の対価として私は今後も馬車馬のようにキリキリ働いて、完全とはいわずとも王太子妃不在の穴埋めをして生きろよ! ということでしたわ!」
もしかすると将来的には、私とジョヴァンニ様の子と、ベリザリオ王太子殿下とアヴェルラ様の子が、仁義ありの継承権争いが発生するかもしれませんが……そのときは強いほうが勝てば良いのです!
ジョヴァンニ様は、歯にタコが引っかかったときのようなお顔で、ソファに腰掛けられました。
「……まあ、座って。一応聞くけどコーヒーとか飲む?」
「もう夜分遅いですし、ジョヴァンニ様にカフェインを摂取させるつもりはございませんわ」
そういうのですぐ寝れなくなるタイプですものね、ジョヴァンニ様。
私がソファに座ると、なぜか虚空を眺めていたジョヴァンニ様が、警戒する猫みたいに可愛らしい睨み方で、私を見つめました。
「…………なんで君は、そこまでして俺と結婚したいの?」
「幼い時分より、ずっとお慕いしておりますのよ? できれば結婚して一生お側に寄り添って、病めるときも健やかなるときも、お役に立ちたいですわ!」
「……もしも俺が、平民になっても?」
「はい! 火急速やかにベリザリオ殿下の私物で不要そうな物を破壊して怒らせて私も一発で平民になり追いかけますわ! そうですね、春の夜の夢想本とか! おそらくアヴェルラ様を想像させる物があると思います!」
「そんな高度な追放タイムアタックしないであげてくれる? 可哀想だから……」
ジョヴァンニ様は肩を落として、険のある眼差しを止めてくださいました。代わりに、眉を寄せて、困ったように小声で問われました。
「……俺が、例えば、今ほど顔が良くなくても、今後老いても、君は俺のことを好きだと言える?」
「はい。ジョヴァンニ様が、ジョヴァンニ様である限り」
「……俺の負けだよ」
そう言うと、ジョヴァンニ様は立ち上がって、向かいのソファに座る私に、なんと近づいてきてくださいました。
「……シレネッタ。一生俺を幸せにしてくれ」
「! はいっ! お任せくださいっ!」
私は素早く立ち上がり、ジョヴァンニ様に差し出された右手を、両手で包みました。
…………ジョヴァンニ様、こんなにお可愛らしいのに、私よりも一回り手は大きいんですよね……。
「あと……婚約破棄のとき、人前で言ってごめん。受理されないのが怖くて……」
「周りはどうでも良かったのですが……」
しょんぼりとそう告げてくださったジョヴァンニ様に、私はやっぱり可愛らしいジョヴァンニ様を堪能しながら苦笑しました。
……私とて、悲しかったのです。ですが、ジョヴァンニ様の希望を聞けていなかったのは私ですからね。そこは仕方ありません。
「……あ、で、でも……」
私は緊張のあまり、ジョヴァンニ様の手を、両手で恐る恐る握り締めました。
「今後は……対価は、きちんと頂くべきだと、思うのです……」
「対価……」
見上げると、やはりジョヴァンニ様は、悲しそうなお顔をされてしまわれました。
しかし、やはり、私ばかり与えようとする関係は、歪みのもとだと思うのですよ。
「出来の悪い俺が、何でもできる君にあげられる物なんて、最初から何もないだろ」
「いえ、……だから、その……き、……を」
私は急にエラ呼吸に戻ったかのように、たどたどしく言葉を紡ぎました。
「……た、たまに、で、いいので……っ、えっと、具体的には、い……一年に一回ほど……っ! ご、ご褒美の、……キスを、していただけませんか……?」
「一年に一回」
ジョヴァンニ様が信じられないものを見る目を私に向けられてしまいました。
「……やっぱり、多すぎますか……? では、三年に一回とか……」
ジョヴァンニ様の手が、やんわりと私の両手を上から覆いました。
「……君と俺は、あと何年生きるつもりなの?」
「え……控えめに見積もると、五十五年ほどでしょうか……?」
そして私は気づきました。
「……あ、そ、そうですよね……! ご、五十五回もキスしていただくなんて、おこがましいですよね……! じゃあ三年に一度だと、えっ、それでも十八回もある……どうしよう……欲張らずに、五年に一回くらいとか……それでも十一回も……?」
ジョヴァンニ様が、なんだが可愛そうなものを見る瞳で、ぎゅっと眉を顰められました。
そして、ほんの少しだけ私に向かって身体を寄せて、囁かれました。
「……シレネッタ。今なら一日一回以上の約束が出来そうだけど、どうする?」
「……に…………二万とんで七十五回……以上………?」
私はぺたりと床にへたり込みました。この世にジョヴァンニ様に二万回以上もキスしていただけるなんて至福があってよいのでしょうか。今日からここを、この世界こそを、天国と名付けるべきです……。
ジョヴァンニ様のために腕を上げたまま私が放心していると、いつの間にか夜会を終えられたらしいベリザリオ殿下がやってきて、ジョヴァンニ様に問います。
「シレネッタがちゃんと説明できてるか心配過ぎて来たんだが……コイツどうしたんだ?」
「……えっと……なんか、俺と結婚したら、その後の人生で俺と何回キスできるかを計算して、腰を抜かしてる」
「したのか?」
「まだ」
「せめてしてからそうなれよ」
私を見て何か言っています。でも今の私はジョヴァンニ様のことでいっぱいいっぱいで、ごめんなさい、ベリザリオ殿下にまで気にかける余裕はないのです……。
「俺は引き取らんからな」
「もうそんなことはしないけどさ」
何やらお話されていたジョヴァンニ様が、ゆっくりと身を屈めて、震える私と同じ高さまでしゃがんで来られました。
「……シレネッタ」
「……っひゃ」
顔が、顔がちか、近いのですが?
「とりあえず、今日の分をしていい?」
今日の分……なんのです? え、キス……ですか?
キス……? ジョヴァンニ様との……?
「…………ふぇ……っ」
「え、ここで泣くの?」
「ちゃんと涙出たんだな、元魚介類なのに」
ベリザリオ王太子殿下の罵倒は聞こえておりますが、それどころではございません!
私、が、っ……ジョヴァンニ様に! ま、毎日、き——?
「失礼いたします、お茶を——」
そのときベリザリオ王太子殿下まで来られたら接待するしかなくなった使用人たちが、部屋に入って来ました。
そして、悲鳴を上げられました。
「ジョヴァンニ様! 何をなさっておりますのっ!」
「あ、あの気狂いポジティブなシレネッタ様が怯えて泣いている……っ? いったいどんな非道いことをなさられたのですっ?」
私はボロボロと大粒の涙をこぼしながら、ぎゅっと身を屈めました。違うんです、皆様、私は……! ジョヴァンニ様に肺呼吸を制限されているだけで……!
「……いやっ、違う、誤解だ!」
ハッとしたように立ち上がったジョヴァンニ様が、私を見下ろして、慌てて私を立ち上がらせようと思ってくださったのか、またしゃがみ込み、私の腕に触れてくださいました。
「日頃の行いのせいだぞ冤罪王子」
ベリザリオ王太子殿下が何かジョヴァンニ様に失礼な事実をおっしゃっているようですが、私もさすがに泣きすぎて気が遠くなってきました。
「ちょっ……シレネッタ! 泣いてないで、助けてくれ!」
「っはい、じょ、ジョヴァンニ様は、悪くないんです……っうぅ、私が、すべて悪いんですっ……!」
ぅあぁ、すごいです、私、いまジョヴァンニ様に求められてしまいました……!
あまりの幸福に、私はそのまま気絶しました。
「……あーあ」というベリザリオ殿下の声や、何やら女性たちの罵声とジョヴァンニ様の悲鳴が聞こえ……遠くなっていきましたが……。
私の、私たちの幸せ新婚生活はここから始まるのです……!
ここまでお読みいただきありがとうございました。真面目なのも、たまに書いております。




