隠し味の砂糖を忘れてはいけませんのね
「ジョヴァンニ様が……寝込まれた……?」
翌朝。信じられない報告が上がってきました。
私は寝不足であることも忘れて、立ち上がりました。仕事? 些末ですよ、ジョヴァンニ様の前では。
だっておそらくは、カリーナが逃げ出した心労からでしょう。
「……ベリザリオ王太子殿下。私、火急の用件で席を外しますわ」
顔を洗っても眠そうな顔のままで戻られたばかりの王太子殿下は、私を見ると、肩を竦めて指先を払うように振りました。
「わかった。俺が倒れる前に戻ってこいよ」
ジョヴァンニ様に与えられた屋敷は、……想定の最低ラインほど、狭いものではありませんでした。
けれど、使用人の数は、決して多いとは言えないものでした。
……たかだか一国の王にはなれないとしても、ジョヴァンニ様が大地の至宝であることには変わりありませんのに、なんという酷い状況でしょうか。陛下にはあんなに言っておいたのに……。
とにかく私は、まだ不慣れそうな使用人に案内させて、ジョヴァンニ様の寝室に辿り着きました。
本来であれば、異性の、それも元婚約者の寝室に踏み込むなどはしたないことではあります。
しかし、どうせストレスだからと、ジョヴァンニ様ご自身のご意向で医師を呼んでいないらしいので、私が看護人として入っても構わないでしょう。
「……シレネッタ?」
入室すると、私が何かを言う前に、ジョヴァンニ様はベッドに横になられたまま、そう問われました。
「はい。シレネッタです」
こちらを見ていないジョヴァンニ様に、私は頷くに留めて、近づきました。
ジョヴァンニ様は私の足音は少し特徴的なのだと、以前仰られておりました。
あるいは、私以外には見舞いに来ないと思われているのかもしれません。
「……何をしに来たの。今更」
その声に以前のような抑揚がなく、私もさすがに居た堪れない心地になりました。
「……お、お見舞いに……参りました……」
以前までは、ジョヴァンニ様が寝込まれたときはどうせ私が将来は王妃なのだからと、泊まりでお側に張り付いて看病をしておりました。けれど、やはり今は良くないことは、私とて理解はしているのです。
けれど、ジョヴァンニ様は、僅かに顔だけをこちらに向けてくださいました。
「そうなんだ。……ありがとう、シレネッタ」
その言葉に、私は救われた心地で頷きました。
さっそく、ベッドの傍らにあった氷水のボウルに柔らかい布を浸し、固めに絞ります。それからジョヴァンニ様の額にかかる髪をそっと分けて、冷えた布を載せました。
ジョヴァンニ様は目を閉じて、長めの息を吐かれました。心地良かったようで、熱と疲労に強張っていた表情が、僅かに和らぎます。
けれど、林檎のように赤くなっている頬と、長い睫毛の下に窺える疲労の色は、まだ消えそうにありません。
「お顔も少し濡らしましょうか?」
「……どっちでもいい」
目を閉じたままのお答えに、私は新しい布を冷やして、ジョヴァンニ様の頬を撫でました。
やはり気持ち良いらしく、ジョヴァンニ様のつらそうな表情が、もう少しだけ和らいでくださいました。
お伏せになられているときに失礼だとはわかっておりますが、やはり猫のように可愛らしい御方と思います。
そのまま冷たさが落ち着いてきた布で、顎下やうなじをそっと拭い、私は布を一度氷水のボウルに戻しました。
するとジョヴァンニ様が目を開けられて、私ではなく天井を見上げたまま呟かれました。
「……情けない俺を見るの、そんなに楽しい?」
私とて、言葉に詰まることはあるのです。
ジョヴァンニ様が情けない姿でも、私は迷わず好きと言えます。愛らしいとも思います。けれど、あえて楽しむために好んでいるわけではありません。情けなさを解消するお手伝いができることは確かに嬉しいのですが、私はジョヴァンニ様がご壮健でいらっしゃるほうが、よほど嬉しいのです。
「シレネッタは、なんでもできるのに……」
ため息を吐かれたジョヴァンニ様が、ちらりと一瞬だけ私のほうを見てくださってから、再び目を閉じられました。
「ベリザリオ……王太子殿下とは、どうなの」
まだつらそうな話し方で、ジョヴァンニ様はそう仰られました。
「どう、とは?」
「俺よりも、会話のテンポとか、内容とか、合うだろ……」
「いいえ、真逆ですが……」
私は、ジョヴァンニ様が目を閉じているにも関わらず、全力で首を横に振りました。
「そもそも私の長話をゆっくり聞いてくださったのは、ジョヴァンニ様だけですわ」
「そんなことないだろ……」
「そんなことばかりですわ。ベリザリオ王太子殿下は、私が三秒話せばツッコミを入れてきます。ええ、例えばこのタイミングで、三秒でも十分にうるさいからなとか」
ジョヴァンニ様が、目を開けられます。
「……やっぱり合っているじゃないか」
「私は、私の思いをすべて聞いてほしいのです」
私のほうを見てくださった紫色の瞳が、ぱちりと瞬きました。やはり綺麗ですね……海の中から見た太陽の光にも匹敵すると思います。陸に上がって心の底から良かったとしか思えません。
「……あ。でも私……最近は、ジョヴァンニ様の話を、あまり聞けていなかったような気がします」
だって、私の内心がこんなにうるさくなるのは、ジョヴァンニ様がお話になっていない時間が長すぎるからかもしれません。
「……うん。確かに」
ジョヴァンニ様は頷いて、ほんの少しだけ微笑んでくださいました。
「でも半分は……俺が、君に話せることが少なかっただけ。……つまらない話をして、君に見限られたくなかっただけ、だから……」
——ぜ、全人類の皆様! 聞いてくださいませ!
ジョヴァンニ様が! 私にたくさんお話してくださっています!
私は感激して耳を澄ませ、息を殺して清聴の構えを取りました。
「……もう寝る。おやすみ」
「えっ、あ、はい。おやすみなさいませ」
ジョヴァンニ様が私を見て、困ったように目を閉じられて、それからもう一度私を見てくださいました。
「……君ってさ、倒れるまで甘やかしてくれないよね。倒れたらすごく優しいのに」
「え? そう、でしょうか」
「うん……たぶん、ベリザリオでも、君ほどは頑丈じゃないから。倒れる前に、気をつけてあげてよ……」
そう言って、ジョヴァンニ様は眠たそうに目を閉じられてしまわれました。お疲れなのかもしれません。
けれど、心なしか先ほどよりも呼吸が穏やかになられているようです。
……そのお姿を守り抜くためにも、私もそろそろ王宮に戻らねばならないかもしれません。
そう思った私は、あと小一時間だけ寝るジョヴァンニ様を見守ってから、後ろ髪を引かれる思いでジョヴァンニ様の屋敷から離れることにしました。
で、なんですか喋るこの屍。
「倒れる前に戻ってこいって言っただろ……」
ベリザリオ王太子殿下、倒れておりました。執務室の机の上に伏せて、判断を下すための参考になる本の山に埋もれて、メモ書きに『シレネッタ、』とだけ書いて。
これ、おそらく『後は任せた』とか書こうとして力尽きたんですよね? ダイイングメッセージみたいになっておりますが。
そして。
「……もしかして……」
私は先ほどのジョヴァンニ様の有り難いお言葉の一つを思い返しました。
「私、人間の限界を勘違いしておりました……?」
「……そうなんじゃないか……」
まあ……。最近の屍ってよく喋るんですね。
「その御様子なら、ベッドまでご自分でお歩きになってから寝られそうですか?」
「……ジョヴァンニじゃないが、俺が王太子だぞ……助けろよ普通に」
その後、十二時間ぐっすりとお休みになられたベリザリオ王太子殿下は、寝起きの仮補給と称されたビスケットをカフェラテに浸して頬張りながら、「そういえば」とぼやかれました。
「お前の父親のカンパネラ侯爵、何も干渉してこないけど、どうなってんだ?」
「どうとは?」
「娘が日々王妃に向かって不気味なくらい邁進してるのなら、祝うなり集るなり、なんかあるだろ普通」
ベリザリオ王太子殿下が、二枚目のビスケットをカフェラテに沈めながら、私を探るような目で見つめられました。
……なるほど。私が父と結託して妙なことを考えていないか、念の為に疑っている、という雰囲気ですね!これは。
「私、お父様とは不仲なのですわ。ここ十年ほどは、社交場でお会いしたときのご挨拶でしか会話しておりませんね」
「そんなにか……。一人娘とわざわざ不仲になるような奴なら、むしろ権力には集ってきそうなものだがな」
「そうとも限りませんよ? 確かに、私もかつては多少愛されようと思って気遣ってみたことはありますけれど」
「多少はあったのか。まあお前も一応エラ呼吸してただけの哺乳類……哺乳類か……?」
「エラ呼吸で母体から生まれた胎生の……牡蠣ペーストで育った……おそらく哺乳類ですわね。だからお父様は私のことが苦手なのですわ」
ベリザリオ王太子殿下は「海のミルクは比喩……」と言いかけてから、黙って新しいビスケットをカフェラテに浸す前に齧られました。
「……でも、もう別に良いのです。ジョヴァンニ様が、初めて私にありがとうと言ってくださった日から、私はジョヴァンニ様にさえ認められれば、お父様とかどうでも……」
ジョヴァンニ様の可愛らしさのほうが、よほどお守りすべき素晴らしいものですからね。
「……それでエグい粘着してたのか。似た者同士だな」
ベリザリオ王太子殿下は、カフェラテをごくりと飲み干して、息を吐かれました。「いや、能力格差とかはあるけど……」
私は仕事の手を止めて、自分のカップにカフェラテを注ぎ、ついでにベリザリオ王太子殿下のカップにも追加のカフェラテを注いで差し上げました。さすがに十二時間お休みになって起きられたばかりなので、あと数時間はカフェイン漬けにして働いていただいても大丈夫ですよね?
「お前、認められて嬉しかったんだろ。ジョヴァンニに」
「はい」
私は即座に頷きました。
するとベリザリオ王太子殿下は、不思議なことを仰られました。
「だったらジョヴァンニのことも認めてやれば良かったのに」
「? 認めるも何も、ジョヴァンニ様は存在そのものがこの大地で至高で崇高な御方ですよ?」
「……そうじゃなくて、努力とかさ」
ビスケットを摘んでいた指先を軽く拭われたベリザリオ王太子殿下は、一番近くにあった書類の束を摘みました。
「こんな仕事、俺の半分でも出来ていたら十分だろ」
「いいえ、ジョヴァンニ様がこなせていたのはベリザリオ王太子殿下の三分の一が限界でしたわ」
「……そうか……」
ベリザリオ王太子殿下は丁寧に書類の束を戻されました。
「まあ……やってるだけ偉いだろ、たぶん。やらねえ貴族に比べれば」
「ですが、ジョヴァンニ様は、国王陛下に認められたかったのですよ? だったら、お辛くともやるしかありませんよね?」
「あー……」
「なぜ天井を仰がれたんですか?」
「お前は出来が良いから、相手から何も受け取らなくても、自分を押し付けることで自己証明できたんだろう」
「はあ……押し付け……」
まあ考えようによっては、そうかもしれませんね。ジョヴァンニ様への愛を貫くために私の人生があるのですから。
しかしベリザリオ王太子殿下は、軽くため息を吐いてしまわれました。
「でも普通は、できない自分ってやつも認められたいんだよ。そこにもロマンはあるんだよ」
「できない自分……を、肯定されることに、ロマンを……?」
そんなものを肯定されて、嬉しいのでしょうか? 海洋生物はそれだと死にますのであまりわかっていなかったのかもしれません。
「お前、ジョヴァンニの存在全肯定してるくせに、ジョヴァンニの不出来は認めてなかっただろ。国王陛下と同じで」
「……国王陛下と同じで……?」
「そうだ。一応言っておくけど、ジョヴァンニの母親代わりって意味じゃないからな」
私はさすがに狼狽えました。
ジョヴァンニ様のお母様、つまり王妃様はジョヴァンニ様が幼少のみぎりに儚くなられております。ですがもちろん私に代わりの母性を求めていらっしゃったわけではないはずです。
ですがそれは、臣下よりも親しい立場からの無償の愛を求めていない、ということにはなりませんね……?
「も……もしかして、ジョヴァンニ様は」
私は冷静さを保つべく、いったんカフェラテに塩を入れようとして、シュガーポットを開きました。
「……私に甘えたかったのですか?」
ベリザリオ王太子殿下がものすごく胡乱げな顔をされました。
「気づいてなかったのか?」
「新概念ですわ……いまジョヴァンニ様のために大地が増えたりしませんでした?」
「お前の思い込みで地殻変動が起きてたまるか」
「そんな……ジョヴァンニ様が、甘え……私に、甘……甘ぁっ? えっ、なぜっ?」
動揺しながら一口飲んだカフェラテが甘すぎて、私は目を見開きました。
「さっきからどさどさ砂糖入れてたけど、やっぱり塩と間違えてたのかよ」
「嘘……わ、私が、そんな、初歩的なミスを……?」
「そこでそんな塩ぶっかけられたナメクジみたいな萎れ方すんのかよお前」
「私は……砂糖を疎かに……?」
戸惑いながら、私は目を閉じて数秒、深く後悔と絶望に身を沈めました。
それから目を開けて、甘すぎる異様なカフェラテを一息に飲み干して、立ち上がりました。
「あの、ベリザリオ王太子殿下」
「……聞きたくないが、なんだ」
「わ、私、まさか……まだジョヴァンニ様のお側にいられます?」
「それはジョヴァンニに聞いてやれ俺は知らん」
「……! はい!」
言質ですわ! 王太子殿下自ら聞けと仰られたのですから、未来の王太子妃業はそれまで休業ですわ!
「では私、これで御前を失礼いたしますわ!」
「俺まだ食事してないんだが!」
ベリザリオ王太子殿下は何か叫んでおりましたが——私は無視して走り出しました。
そう、すべては真実の愛を貫くために!




